軍都の要衝「市ヶ谷」で今も顔をのぞかせる「戦前」の記憶
2019年12月5日
知る!TOKYOかつて「帝都」と呼ばれた市ヶ谷。その歴史と史跡について、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。
政治家や文人が数多く住むも、現在は……
東京はかつて軍都で、当時は「帝都」と呼ばれていましたが、現在東京を歩いていても軍服を見かけることは当然ありません。軍都の要衝だった市ヶ谷においてももちろん同じです。東京は、すっかり「平和」を身にまとった都市となりました。

市ヶ谷は外濠(そとぼり)を挟んで、千代田区と新宿区に分断されています。大まかに分けると千代田区は番町、新宿区は市ヶ谷台となります。
番町は江戸時代の将軍を直接警護する大番組(おおばんぐみ)と呼ばれる旗本の屋敷が集まっていて、それが地名の由来になっています。明治以降は都心部における高級住宅街になり、政治家や文人が数多く住んだことでも知られ、現在では大邸宅はほとんど姿を消し、高級マンションやオフィスビルが多く見られます。
市ヶ谷台はかつて陸軍士官学校があり、その後は陸軍省参謀本部、教育総監部、陸軍航空総監部が移転、戦後は自衛隊市ヶ谷駐屯地、市ヶ谷基地を経て、防衛省が移転。長い間、日本の防衛機関や施設が集まる場所になっています。なお、戦前は陸軍士官学校のことを「市ヶ谷台」と呼んだりもしました。
外濠公園はもともと軍用地だった
ちょうどそのふたつの地区に挟まれている外濠と並行してJR中央線、総武線が走っています。そしてそれに沿う外濠の土手上に、飯田橋から四谷にかけて外濠公園(千代田区五番町)があります。
ここはもともと軍用地でしたが、1921(大正10)年に法政大学が市ヶ谷に移転。その後、禁を破って土手に入り込む学生が後を絶たず、警察と揉めることもしばしばだったそうです。そこで法政大学は当時の東京市に対し、外濠の土手開放を要請しました。その結果、1927(昭和2)年にまずは牛込橋から新見付橋の間を外濠公園として開放、その後、その範囲を拡大してきました。

新見附橋(新宿区市谷田町)からJR市ヶ谷駅方面に向かうところの入口に、「東京市外濠公園」と書かれた石標が残っています。右から文字が書かれているので、紛れもなく戦前のものでしょう。ほとんどの人が気にも留めずに横を過ぎていきますが、近代的になった界隈をよそに戦前がちらっと顔を覗かせています。

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