意外な組み合わせ? TOKYO FMの大株主になぜか「東海大学」の名があるワケ

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意外な組み合わせ? TOKYO FMの大株主になぜか「東海大学」の名があるワケ

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真砂町金助

フリーライター

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東京を彩るラジオ放送。そのなかでももっとも東京色が強いのが「TOKYO FM」です。そんな同局の歴史について、フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

東京らしさが強い「TOKYO FM」

 新型コロナの感染拡大で、ラジオへの注目が集まっています。テレビ番組の多くがゲストのリモート出演体制を選択したため、以前に比べたらだいぶ良くなったものの、番組内には微妙な間や空気感がいまだに漂っています。それに対して、声だけのラジオはそのような問題は生じません。

 いずれにせよ、多くのラジオ局はインターネットによる番組配信を行っているため、「テレビも映画もYouTubeももう飽きたからラジオでも聞こうかな」と簡単に行動に移せるのは魅力的なことでしょう。

 さて、地方から上京した人が「都会を感じるポイント」のひとつに、聞けるラジオ局の多さがあります。今でこそFM放送局は地方で増えていますが、1990年代まではどこでもNHKと民放が1局程度。それが上京したらどうでしょう。地方ではありえないような軽快なトークを絡めながら、最新ナンバーや洋楽が24時間楽しめるではないですか……。

 とりわけ、「東京感」が強かったのが「TOKYO FM」です。

TOKYO FMのウェブサイト(画像:エフエム東京)



 なにしろ「渋谷スペイン坂スタジオからお送りしています~」という一言は、上京したばかりの若者をしびれさせるのに十分でした。そのスペイン坂スタジオも、入居していた渋谷パルコの建て替えで2016年8月に閉鎖となりましたが、都会を感じさせてくれたもののひとつとして、多くの人に記憶されているでしょう。

日本で3番目のFM放送局

 さて、そんなTOKYO FMは1970(昭和45)年、日本で3番目のFM放送局として開設されました。

 TOKYO FMという名前はステーションネーム(ラジオ局の愛称)で、企業名はエフエム東京(千代田区麹町)です。なおステーションネームとしてTOKYO FMを名乗り出したのは、1990(平成2)年から。それまでは「FM東京」でした。

千代田区麹町にあるエフエム東京(画像:(C)Google)



 TOKYO FMの歴史を見ると気になるのは、なぜか東海大学(渋谷区富ヶ谷)が筆頭株主であるということです。

 東海大学は首都圏で広く知られる大学ですが、なぜラジオ局の株主になっているのでしょうか。その背景には、開局までの日本の技術開発の歴史が絡んでいました。

当初少なかったFM放送用ラジオ

 日本でのFM放送の始まりは、新潟県長岡市の教育委員会が1953(昭和28)年に始めた長岡教育放送です。

 この放送は学校向けに教育番組を放送することを目的に始められましたが、正確には放送局免許を受けていたわけではないため、「放送局」の始まりではありません。放送局としての始まりは1957年のNHKです。

 こうしてFM放送が始まろうとしていた当時、東海大学の創立者・松前重義はFM放送を使って通信教育を行うことを目的に、東海大学超短波放送実験局を立ち上げました。

 郵政省(当時)の許可を得て、1958年12月に同大の代々木校舎を使って開局。翌1959年から高校の通信教育放送を始めます。そして、1960年には東海大学超短波放送実用化試験局、通称「FM東海」が新たに開局します。なお実験局と実用化試験局の違いは、後者が広告事業など、営利事業を行うことができる点です。

昭和時代のラジオのイメージ(画像:写真AC)

 この頃、FM放送は将来を期待されていたものの、収益を得るにはまだ遠い状態でした。なにしろ放送局が少ないため、FM放送を聞けるラジオは国産品ではほとんどありません。資料を探してみたところ、FMラジオの国産第1号は春日無線工業(後のケンウッド)が1957年に発売したものでしたが、主な用途は海外への輸出用だったようです。

郵政省 VS FM東海

 そのような状況のため、FM東海も開局初期はリスナーを確保すべく奔走。これまでのラジオ放送とは異なり、FMは雑音がないため、その魅力を伝えるべく喫茶店などに設置してもらうことでリスナーを増やしていきました。なお、この頃の番組編成は当初の目的である通信教育番組と音楽番組の二本立てでした。

 ほぼゼロスタートで徐々にリスナーを増やしていたFM東海ですが、1968年1月に郵政省からクレームが入ります。その理由は、10年以上も実用化試験局のままなのはおかしいということでした。

 事態は深刻化し、郵政省がFM東海に対して放送免許の再交付を拒否するとの通告を行いました。この背景にはFM放送実用化の主導権を郵政省が握りたいといった思惑や、当時の小林武治郵政大臣と東海大学の松前総長との確執など、さまざまな理由がありました。

 話し合いは継続しますが、郵政省は再交付を認めず、1968年6月末で免許は失効してしまいます。しかし、FM東海は放送を継続。これを見て郵政省は電波法違反で東京地検に告訴を実施。対するFM東海も郵政省を虚偽告訴罪で告訴し、東京地裁に免許取り消し処分の停止を求める行政訴訟を起こすなど、それまでの実績をもとに強気の姿勢で対抗しました。

千代田区麹町にあるエフエム東京(画像:(C)Google)



 8月になり、東京地裁がFM東海側の言い分をほぼ認める決定を下したことで改めて話し合いが行われます。結果として出資者も増やした民間放送に移行することで妥結し、FM東海を継承したFM東京が1970年4月、誕生したのです。

 東京を象徴するラジオ局にそのような歴史があったとは、今では知る人も少なくなりました。今夜はそんなことを考えながら、DJの軽快なトークを楽しんでみるのも面白いかもしれません。

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