いつだって「庶民の味」 江戸で花開いた天ぷらのアツアツ今昔物語【連載】アタマで食べる東京フード(12)

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いつだって「庶民の味」 江戸で花開いた天ぷらのアツアツ今昔物語【連載】アタマで食べる東京フード(12)

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畑中三応子

食文化研究家・料理編集者

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味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。

江戸で開花した元祖ファストフード

 今日、もっとも伝統的な日本料理となったすし、天ぷら、うなぎ、そばは、江戸時代の江戸で流行した元祖「ファッションフード」で、すべて屋台での買い食いが中心のファストフードでした。

 これらが全盛を迎えたのは、町人が経済力を持つようになった文化文政期(1804~1830年)。料理のレシピ本や店案内、料理屋をランキングした番付表が人気を博し、庶民が食の情報消費と食べ歩きにいそしんだグルメブームの時代です。

 なかでもファストフードの王者格だったのが、天ぷらです。

 原型はポルトガルやオランダから伝来した南蛮料理にあるといわれますが、いまも西日本では魚のすり身を揚げたものを「てんぷら」と呼ぶように、大阪や京都では衣揚げが定着しませんでした。

 それに対し、エビやイカ、ハゼ、キス、ギンポ、メゴチ、シラウオ、アナゴ、貝柱など、新鮮な江戸前の魚介が豊富に手に入る江戸では、爆発的なヒット商品になったのです。

 露天の天ぷら屋台は、天明期(1781~1789年)から盛んになりました。

 火事が多かった江戸では、引火しやすい油を扱う天ぷらは屋外での営業しか許可されず、店内で商売する場合でも、店の前で揚げて売らなければなりませんでした。

 使う油はゴマ油をはじめ、エゴマ油、カヤ油、菜種油などで、いまのように精製度が高くなかったので油煙が上がり、室内での調理には不向きでもありました。

揚げたて熱々 たちまち庶民はとりこ

 当時の天ぷらは、魚に小麦粉を水で溶いた衣をつけて揚げ、串を刺したフィンガーフード。

 揚げたての熱々に、大きな丼に入れた天つゆと大根おろしをつけて頬張りました。手を汚さず食べられて、油でカロリーを、魚でタンパク質を取れ、油のしつこさは大根おろしでやわらげる。理にかなったファストフードです。

揚げたて熱々の天ぷらは、今も昔も庶民が大好きな味(画像:写真AC)



 江戸時代の食事はあっさり味の菜食中心でしたから、あたりに漂う油の匂いからして、さぞやエキゾチックだったことでしょう。素早く出てきて、油を吸った衣となかで蒸された状態になった魚とのコンビネーションが目新しく、ボリュームもある。屋台の立ち食い天ぷらは、江戸っ子の好みにぴったりでした。

 幕末からは料亭でも出すようになり、天ぷらはファストフードから座って箸で食べる料理に昇格していきます。

 明治になると、天ぷら専門店舗の「天ぷら屋」が出現。注文主の家に出向き、座敷に道具を広げて目の前で揚げる「お座敷天ぷら」という商売も生まれました。しかし、屋台は街から消えず、庶民性が失われることはありませんでした。

 有名な天ぷら屋も屋台から始まったところがほとんどで、大正時代に出版された職業案内書『上京して成功し得るまで』には、1日の純益がつねに2円(現在の1万円前後)くらいはあると、「露店天麩羅屋」商売を薦めています。屋台からスタートして店を持つのが、天ぷら職人の立身出世コースだったわけです。

 こうして発達した東京の天ぷらは、1923(大正12)年の関東大震災を境に大きくかわりました。

 壊滅状態になった東京から、天ぷら職人が大挙して大阪や京都、神戸に移住し、綿実油、大豆油、落花生油、椿油などを使った関西風の淡泊な風味に舵(かじ)を切ったのです。

昔ながらを味わえる浅草の名店3軒

 復興が進むと、関西の味や技を身につけた職人が東京に戻ってきたうえに、ビジネスチャンスを求めて関西から東京に進出する店が急増。天ぷらに限らず、「上方料理」のブームが起こりました。

 結果、白っぽく軽く揚げる天ぷらが流行し、それまでのゴマ油で揚げた色が濃く、味も濃厚な江戸の天ぷらは古くさいものと見なされるようになってしまいました。

 天つゆではなく、塩を食べさせる店が増えたのも、この頃から。天ぷらはローカルな料理から全国区に広がり、いつしか日本料理の代表格に発展していきました。

 とはいえ、今日でもゴマ油がきわだった江戸の味を守る店は、たくさん健在しています。なかでも庶民的な店が集まっているのは、やっぱり下町の浅草界隈(かいわい)です。

 現存する天ぷら屋として日本最古といわれるのが、雷門の「三定(さんさだ)」(台東区浅草)。創業は1837(天保8)年、天丼発祥の店とする説もあります。

雷門通りに面した「三定」。入り口脇におみやげ売場があるのが目印(画像:畑中三応子)



 うれしいのは、入り口横でテイクアウト用の各種天ぷらを売っていること。

 少しだけ買っても、いつもていねいに包んでくれて、とても気持ちがいい。小エビとイカの分厚いかき揚は、400円。ゴマ油の香ばしさと、ガリッとした歯ごたえが特徴です。こういう存在感の強い衣の天ぷらは、家でも濃いめで甘めの天つゆで食べるのがベストです。

 浅草で人気ナンバーワンなのが、伝法院通りの「大黒家天麩羅」(同区浅草)。

 1887(明治20)年にそば屋として創業し、明治末に天ぷら専門に転身。ゴマ油だけでキツネ色に揚げた大きなエビが濃い色のタレにまみれて黒くなり、丼からはみ出した名物の天丼はあまりに有名です。

店舗が登録有形文化財の老舗も

 味はいわずもがなかもしれませんが、見た目ほど辛くないタレがよくしみて、サクッカリッの対極にあるしっとり状態になった衣がたまらない。ご飯がよく進み、これぞ庶民の味です。

 建物も合わせて、レトロな雰囲気を堪能するなら、絶対に訪ねたいのが「土手の伊勢屋」(同区日本堤)。浅草駅から北に向かって徒歩20分程度、吉原遊郭の入り口だった吉原大門の正面にある粋な木造家屋の店です。

1945年3月の東京大空襲で奇跡的に難を逃れた「土手の伊勢屋」の風情ある建物(画像:畑中三応子)



 浅草からは、いまは遊歩道になっている山谷堀公園を歩くのも一興。山谷堀はかつて吉原への通路のひとつで、猪牙(ちょき)と呼ばれる小舟を仕立てて行き来しました。

 旧吉原を含む言問通りの北側一帯は現在「奥浅草」と呼ばれて、通好みの名所と名店が点在する人気の散策エリアです。

 土手の伊勢屋は、1889(明治22)年の創業時から吉原を訪ねる客で繁盛し、24時間フル営業だったそう。1927(昭和2)年に立てられた建物は、文化庁の登録有形文化財に登録されています。

 いまは昼だけの営業で、いつでも行列必至です。大半の客の目当ては、イ・ロ・ハと3種類ある天丼。値段は順に1600円、2100円、2600円と高くなりますが、松竹梅でランク付けしていないところに下町の気っぷのよさを感じます。

 どれもボリューム満点ですが、とくにロとハにのったアナゴ丸ごと1匹のはみ出し方は、偉容(いよう)といってよいほどの迫力。揚げ油はゴマ油にコーン油をブレンドしているそうで、濃い香りとサクサクした軽さがほどよくミックスした衣です。

連綿と続く日本食文化の進化

 以上の3店以外にも浅草は天ぷらの激戦区で、新しくできたところでは、花やしき遊園地のすぐそば、ひさご通り入り口の「天麩羅 秋光」(同区浅草)がおもしろい。

ひさご通り入り口の角にある「天麩羅 秋光」(画像:畑中三応子)



 注文はタッチパネルで行い、グリーンカレー、明太チーズもんじゃ、エビグラタンなど、変わり種が何種類もある下町の進化形天ぷらです。

 現在は、どの油を使うにしても精製度が非常に高いので、昔と同じ味とはいえないでしょうし、むしろおいしくなっているはずですが、下町の天ぷら屋を巡っていると、屋台で立ち食いのファストフードだった頃の気取らなさと、江戸から続く食文化の連続性がたっぷりと体感できます。

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