開業から110周年 なぜ渋沢栄一は日比谷に「帝国劇場」を作ったのか【青天を衝け 序説】

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開業から110周年 なぜ渋沢栄一は日比谷に「帝国劇場」を作ったのか【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

フリーランスライター

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

2021年で開業110周年

 帝国劇場(千代田区丸の内)が1911(明治44)年、東京・丸の内と日比谷の境となる一画にオープンしました。2021年は、帝国劇場110周年という節目です。

千代田区丸の内にある帝国劇場(画像:小川裕夫)



 開場から110年を経た帝国劇場は日比谷公園からも皇居からも近く、その周辺には多くの緑をたたえます。超一等地ともいえる都心にありながら、豊かな自然が多く残るエリアに所在しています。

 帝国劇場は近隣の日生劇場(同区有楽町)、東京宝塚劇場(同)とともに有楽町・日比谷の劇場街を形成し、東京の、そして日本を代表する劇場として日本の興行界をけん引してきました。

 現在の帝国劇場は東宝が運営を担っていますが、当初は日本に劇場文化を根付かせることを夢見た政財界人から多大な支援を受けて開業しています。

開業を主導した渋沢栄一

 帝国劇場の開業を主導したのは、2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一です。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)

 幕末、徳川慶喜の弟で御三卿のひとつでもある清水徳川家の当主だった徳川昭武は、将軍の名代として1867年のパリ万博へと派遣されました。幕臣として慶喜に仕えていた渋沢は、会計担当者として昭武に随行します。

 渋沢はパリで多くのモノやシステムを学びました。銀行や株式市場など、それらが日本の近代化を進め、現在に至る資本主義という考え方を浸透させています。

 また渋沢はパリ滞在中、経済・金融というシステムだけではなく、市民の間で盛んだった美術・芸術面にも関心を示しました。

 日清・日露戦争に勝利した日本は、明治新政府発足以来の懸案だった関税自主権を回復。大国・ロシアに戦争で勝利し、関税自主権を回復させたことにより、政府関係者たちは日本が世界の一等国に肩を並べたと自負しました。

 しかし、それはあくまでも軍事力・経済力の話に過ぎません。文化・芸術も国力を測るバロメーターのひとつです。

 文化や芸術は、一朝一夕で社会に浸透させることはできません。また、政財界という一部の人間だけが文化・芸術を楽しんでいるだけでは、文化・芸術が深まっているとはいえません。一般庶民でも美術・芸術を気軽に楽しめるような環境にならなければ、文化大国・芸術大国になったとはいえないのです。

問題になった劇場の建設場所

 パリ生活で刺激を受けた渋沢は、文化・芸術を振興する手始めに大規模な劇場の開設を政財界に呼びかけました。

渋沢栄一(画像:深谷市、日本経済新聞社)



 渋沢の呼びかけに、三菱財閥で辣腕(らつわん)をふるっていた荘田平五郎、福沢諭吉の娘婿で実業家として活躍していた福沢桃介、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎、三越百貨店の創業者とされる日比翁助など、大物財界人が賛意を示します。

 こうした財界人たちからの賛同を得たことで、劇場を建設するための資金は軽々とクリアしてしまいます。問題になったのは、劇場をどこに建設するのか?といったことでした。

 当時、東京駅はまだ開業(1914年)していません。帝国劇場のある場所は、今でこそ多くのビジネスマンや買い物客であふれていますが、当時は日本橋や銀座が街の中心でした。丸の内や日比谷は大規模な劇場をつくるのに土地が手に入りやすいといった事情はありましたが、街のはずれなので集客面で不利になります。

 集客面で不利を抱えながらも、渋沢が帝国劇場を日比谷に開設した理由はいくつかあります。そのなかでも、大きな理由と考えられるのが井上馨の存在です。渋沢は、明治新政府が発足したばかりの頃に役人として出仕していた期間があります。短い役人生活でしたが、そのときに上司だったのが井上でした。

欧化政策とその弊害

 西洋諸国と比べて、日本が文化的に発展途上国だと考えていた井上は、あらゆる面で日本を西洋化する取り組みを進めます。井上が取り組んだ政策は、欧化政策と呼ばれます。

 井上の欧化政策は建築物といった目に見えるハード部分だけではなく、ライフスタイルからビジネスといったソフト面にまで及びます。井上は、日本のいっさいがっさいを西洋化しようと躍起になったのです。

 急進的な井上の欧化政策は、一方で庶民からは「西洋かぶれ」と猛批判されました。また、井上が西洋的なライフスタイルを定着させるために建設した鹿鳴館(ろくめいかん)では、上層階級によるパーティーが夜な夜な開催されたこともあって、庶民の怒りを買うことになりました。生活が苦しい庶民の目には、上層階級がぜいたくをしていると映ったのです。

井上馨(画像:山口県立山口博物館)

 怒りの矛先は、欧化政策を主導した井上へと向けられました。

 井上の欧化政策は不平等条約の改正を目的とするために西洋と肩を並べる必要があるという発想から始まっています。しかし、井上の努力もむなしく、不平等条約の改正は失敗に終わりました。こうなると、井上は責任を追及されます。井上は責任をとって外務大臣を辞任。こうして、欧化政策の象徴でもあった鹿鳴館での夜会も終わりました。

 無駄と断じられた鹿鳴館ですが、国際親善や海外交流の重要性は高まっていました。そこで渋沢は、1890年に鹿鳴館の隣接地に帝国ホテルを開業。帝国ホテルが国際親善や海外交流の場として活用されることになります。

「今日は三越、明日は帝劇」が流行語に

 こうして海外との交流が進むと、さらに文化・芸術を振興しようという機運が高まります。こうして、日本初の西洋式演劇劇場の計画が進められることになり、帝国ホテルに近い現在地に開業したのです。

帝国劇場の所在地(画像:(C)Google)



 帝国劇場が開場とはいえ、それは劇場というハード面が整ったに過ぎません。いきなりオペラやミュージカルといった西洋式の興行を公演したところで、多くの日本人になじみがないので客を集めること難しいでしょう。人々が関心を示し、劇場に足を運ばなければ、財界人がいくら金銭的な支援をしても西洋式の興行は浸透しません。そして、文化・芸術で西洋と肩を並べることはできません。

 一般庶民にもオペラ・ミュージカルといった西洋式の興行になじんでもらおうと、井上は古くから親しまれてきた歌舞伎を西洋風にアレンジして上演することにしました。井上は以前から歌舞伎などの改良運動に取り組んでおり、1887(明治20)年には自宅に明治天皇を招待して天覧歌舞伎を実施しています。

 いくつもの理由が積み重なった結果、帝国劇場は帝国ホテル・鹿鳴館の近くに完成しました。そして、渋沢の呼びかけによって建設資金は潤沢に集まり、井上という政治的な後ろ盾も得て華々しく開場したのです。

 大正期に東京観光がブームとなると、「今日は三越、明日は帝劇」が流行語になります。これは、三越百貨店で買い物をして、翌日に帝国劇場で観劇することが当時のはやりだったことを示すキャッチコピーです。

 帝国劇場の開場を皮切りに、先述した東宝劇場や日生劇場なども次々に誕生して日比谷・有楽町エリアは一気に劇場街として変貌を遂げました。帝国劇場の誕生から110年を経た現在に至っても、帝国劇場の存在感は失われていません。日比谷・有楽町は、文化・芸術の薫りのする街になっています。

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