80年代初頭の「お茶の水」が原宿・六本木より断然イケてた決定的理由

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80年代初頭の「お茶の水」が原宿・六本木より断然イケてた決定的理由

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犬神瞳子

フリーライター

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東京・お茶の水といえば東京でも有数の学生街。実はこの街はかつて、原宿より六本木よりも若者文化を漂わせる「サブカルの街」と捉えられていた時代がありました。一体いつ頃のことでしょうか。フリーライターの犬神瞳子さんが紹介します。

かつては学生運動が盛んだった街

 お茶の水といえば、東京で随一の学生街です。

・中央大学(千代田区神田駿河台)
・明治大学(同)
・日本大学(同区九段南)
・東京医科歯科大学(文京区湯島)
・順天堂大学(同区本郷)

といった大学から駿台予備校や研数学館まで、多くの学校がひしめき合い、学生向けの定食屋や古書店が繁盛している街でした。

 その後、中央大学が拠点を郊外に移転するなど変化もありましたが、いまだに学生の街であることに変わりはありません。

 そんな学校の多いお茶の水ですから、雰囲気はアカデミック。でも、そんなお茶の水が原宿や六本木に並ぶ若者の街へと変貌しかけた時期もあったのです。

今でもさまざまな教育機関が立地する東京随一の学生街・お茶の水(画像:写真AC)



 戦前から学生街として栄えたお茶の水かいわいですが、熱く燃えた時代もありました。1970年代初頭までの学生運動が活発だった時代です。

 お茶の水といえば「日本のカルチエ・ラタン」と称される街。カルチエ・ラタンとは仏セーヌ川左岸、5区と6区にまたがるパリ大学などの教育機関が集まる学生の街。

 1968(昭和43)年5月にフランスで盛んになった五月革命と呼ばれる学生運動のブームに影響を受けて、お茶の水や神田一帯は「日本のカルチエ・ラタンにせよ」というスローガンで盛り上がりました。

 当時の記録映像などを見ますと、大学の机や椅子を持ち出して道路を封鎖してバリケードをつくり、機動隊とぶつかり合っていますから、大変な時代もあったものです。

 そんな熱い時代も1974年頃になると、すっかり下火になっていました。

大学だけではない、多彩な学校が集まった街

 そしてお茶の水かいわいは一転し、オシャレな女子学生たちが数多く集まる街として注目を集めるようになりました。

 この変化が始まったのは、現在のJR御茶ノ水駅から御茶ノ水橋出口を出て水道橋方面。かえで通りとマロニエ通りがその中心でした。

 当時、御茶ノ水橋出口を出ると目の前は今と同じくスクランブル交差点と交番。地方から上京した人には、スクランブル交差点の初体験は渋谷よりもこっち、という人が多い時代もありましたが、今はどうなのでしょうか。

お茶の水といえばこの交差点を思い浮かべる人も少なくないはず(画像:(C)Google)



 角には「パチンコロイヤル」。対角線上の向かいにはカレーの「マコ」。その隣は立ち食いそばの「小もろ」でした。

 楽器店やレコード店、薬局などが目立つ現在と違い、ちょっとシックだったスクランブル交差点の先には、数年前の熱い時代には見られなかった、オシャレな女性たちが闊歩(かっぽ)している姿が見られたのです。

 このお茶の水の雰囲気を変えた原動力は、学生運動の時代には文化の傍流だった学校群でした。

 この通りには、文化学院を筆頭に、

・アテネ・フランセ
・御茶の水美術学院
・池延お茶の水学園
・東京写真専門学校
・東京写真専門学院
・東京芸術大学音楽学部付属音楽高等学校

などの学校が集まっていました。ようは、総合大学ではなく専門学校などが集まるエリアだったのです。

専門学校への進学は夢ある若者の選択

 今では高校卒業後の進学といえば「取りあえず大学」というのが半ば常識になっていますが、当時は専門学校や各種学校が存在感を見せていました。

 1974(昭和49)年の若者のデータを見ると、18歳人口は全国で162万1728人。四年制大学への進学率は男性が38.1%、女性は11.6%です。

 男女合計で25.1%。2020年発表の速報値が46.1%ですから、隔世の感があります。隔世の感というよりも最近、ライトノベルで定番となっている「異世界」といった方がよいかもしれません。

 すでに大学はエリート層だけが通うものではなく大衆化していたものの、現在ほどの進学率ではなかったのです。

 とりわけ女性をとりまく環境は本当に「異世界」です。

 1980年代に入り女性の四年制大学進学率が高まり、男女雇用機会均等法の施行を受けて女性の社会進出は増していきます。

 それよりも十数年前の1970年代中頃は、短大や専門学校を出て「何年かだけ就職」とか「家事手伝い」が社会の常識になっていた時代です(家事手伝いという言葉は現在でも自称として用いる人もいますが、縁談を待つ若い女性を指す言葉としては完全に消滅しました)。

 一方で、専門学校は男女ともに、大学に通うよりも何がしかの専門性を身につけて大望を実現したいという若者の進学先でもありました。

週プレが特集した「お茶の水ガール」

 フランス語教育の名門であるアテネ・フランセなどは、本気でフランス語を習得して海外で夢を実現したいと考える男女にとっては定番の進学先でした。

 御茶の水美術学院は、当時から美大を目指す若者のための名門予備校。ここに著名な芸術家・作家・役者を輩出した独特の学校だった文化学院なども加わり、それまでの文化の主体だった大学生とはひと味違う人々が存在感を示したのが、このエリアだったのです。

 加えて、若者がたくさんいる文教地区であるこのエリアは、いかがわしい店は皆無。パチンコ店は駅前に1軒だけですし、店も夜20時になれば閉まってしまうわけですから、六本木や原宿とは異なる独特の若者の街を形成していたのです。

 ちなみに1974(昭和49)年当時で、学生が気軽に入ることができるようなアルコールが出る店はこのかいわいにはほとんどありません。

 当時、どういう若者が闊歩(かっぽ)していたのか、情報を探すと『週刊プレイボーイ』1979年7月9日号での現地取材記事が見つかりました。

1979年当時の『週刊プレイボーイ』(画像:集英社)



 男性向けの雑誌ゆえに書き方は扇情的ですが「思わずふりかえりたくなるようなセンスのいいカワイコちゃん」があふれている。「若くてキュートなお茶の水ガール」は推定4000人。「原宿や六本木にたむろしている女の子は今やイモ同然」なんて評価まで下しています。

 実際、この記事でも分かるのは芸術や音楽に興味があったり、極めてオシャレな方向の文化系の若者が集まっていたということです。

サブカルのはしりは、この地で誕生した

 ここから読み取れるのは、この後20世紀後半に成熟していくサブカルのはしりが、ここにすでに存在していたということでしょう。

 今では飲食店も増えて雰囲気は変わっていますが、エリア一帯が現在よりも文化の香り高い独特の若者の街だったという事実。その実情は引き続き調査していきたいと思っています。

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