安産・子育守り「すすきみみずく」を消滅から守る(後編)ー職人が作り方を教えなかった理由

2018年9月30日

知る!TOKYO
宮崎佳代子

昭和40年代、東京の郷土玩具「すすきみみずく」の職人はわずかとなり、後継者難が叫ばれるようになりました。その一方で、職人たちは作り方を人に教えようとしませんでした。理由は何だったのか。筆者はその答えを、亡くなった職人たちが作ったみみずくを探すなかで、図らずも知ることになったのでした。


10年修行を積んでも「まだ、人様に売りに出せない」

(前編はこちら)

 雑司が谷鬼子母神堂の境内に、江戸期創業の駄菓子屋「上川口屋」があります。かつて、ここでもすすきみみずくを売っていたと聞き、13代目店主の川口雅代さん(78)に当時の話を聞きました。

「腕のいい飯塚さんという職人さんがいてね、その人のみみずくだけをここで売っていました。飯塚さんはお姑さんから、10年作り続けても『まだ、そんなものは人様に売りに出せない』と言われるくらい厳しく腕を磨かれて。絶対に作り方を他人に教えなかったから、同じものを作れる人が現れることはないでしょうね」(川口さん)

 そう言いながら、引き出しから飯塚さんが作ったみみずくを取り出して見せてくれました。20年前に作られたものにもかかわらず、形が全く崩れておらず、穂を束ねる紐の強固な縛り具合など、職人仕事と分かるものでした。

上川口屋の川口雅代さん(2018年8月10日、宮崎佳代子撮影)。
鬼子母神堂の拝殿(2018年8月10日、宮崎佳代子撮影)。

 近江住職や郷土資料館などから情報を得ていた職人は飯塚さんと岡本さんのふたりだけ。しかし、そのどちらの作風も記憶とは違っていたため、昭和40年代、他にも職人がいたのではないかと思い、調べました。

明治の女手が紡いだ、威厳と優しさが共存するみみずく

 片っ端からインターネットでみみずくの画像を探すなか、1枚のおばあさんの白黒写真を見つけました。それを手がかりに、『明治を伝えた手』(朝日新聞社)という写真集を発見。そこに吉田すずさんというみみずくの職人紹介が載っていました。

 吉田さんのみみずくは、胴体の膨らみが豪快なまでにふっくらと丸みを帯びたもの。ちょっと怖い表情で、記憶にあるみみずくに近いと思いました。

 本の内容から、吉田さんの生まれは明治前半から半ば。写真集には、「六十年これを手掛けてきた」「若いお嫁さんが、十年やってこの丸みはとても出ないという」「雑司ヶ谷鬼子母神の宝もののような人だ」と書かれていました。明治の女手が紡いだみみずくは、威厳と優しさが共存する力強いものでした。

吉田すずさんのみみずく制作模様。杉村 恒著『明治を伝えた手』朝日新聞社より(朝日新聞社に無断で転載することを禁じる。承認番号:18-3972 写真:日本写真家協会所蔵)

 そして、この吉田さんの写真集との出会いによって、ついに筆者が探していた、懐かしのみみずくにたどり着くことになるのです。

 長島さんに吉田すずさんの存在を話したところ、法明寺にあった古い資料で、わずかとなったみみずくの職人の氏名が書かれた資料を探し出してくれました。そこで初めて目にした名前が、大沢巻太郎・みね夫妻。

 その資料には、みみずくの後継者難を伝えた複数の新聞報道の日付が記されていました。そのひとつ、1972(昭和47)年4月15日刊の朝日新聞東京版を調べたところ、巻太郎さんのみみずくの写真が掲載されているのを発見。記憶より感覚が先立って懐かしさを覚え、胸が一杯になりました。筆者の母と複数の親族にも確認して、祖父に購入したみみずくは大沢夫妻のものだろう、との結論に達しました。

後継者になるために職人が示した4つの条件


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