市町村合併でおなじみ「役所の位置」問題 都心の目黒区でも同様のことが起きていた

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市町村合併でおなじみ「役所の位置」問題 都心の目黒区でも同様のことが起きていた

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県庁坂のぼる

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合併時にたびたび話題となるのが、役所の位置問題です。そんな問題は都心の目黒区でも起きていたのをご存じでしょうか。フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。

役所がある位置の重要性

 1999年から2010年まで行われた「平成の大合併」によって、多くの新たな自治体が生まれました。合併時にたびたび話題となるのが、役所の位置です。

 近年、インターネットで申請や届け出など、多くの手続きができるようになりました。住民票などはコンビニエンスストアのコピー機で入手できる自治体も当たり前になっています。

 それでも大半の手続きは役所に出向く必要があるため、役所の周辺は人が必然的に集まる地域となります。そのため、役所の位置は非常に重要で、合併には異論がなくても、位置をめぐって合併そのものが頓挫した地域というのもあるのです。

目黒区上目黒にある現在の目黒区役所(画像:(C)Google)



 落としどころを探った結果、なぜか不便な場所に新庁舎ができてしまったという事例もあります。

合併後に生まれた新たな問題

 2001(平成13)年に保谷市(ほうやし)と田無市が合併して生まれた西東京市は、特異な形を取ってきました。合併後も田無庁舎と保谷庁舎の両庁舎を活用した「一市二庁舎体制」を実施していたのです。

 一見今までと変わりないように思えますが、住民からは「どちらの庁舎に行けばよいかわからない」「手続きのために両庁舎に行かなければならない」という問題が噴出していました。

西東京市役所の田無庁舎と保谷庁舎の位置関係(画像:(C)Google)

 この問題は保谷庁舎が老朽化したことからようやく解決に動き出し、2017年に統合を決定。2020年から保谷庁舎の業務移転が始まっています。また保谷庁舎の一部部署は、田無庁舎前の市民広場に建設された庁舎に移転となりましたが、この庁舎はあくまでも仮。2033年をめどに統合庁舎を建設予定としていますが、場所は未定です。

 埼玉県のさいたま市役所は旧浦和市役所をそのまま利用しているため、市の中心から外れた旧大宮市の住民は不便な状況にあります。そのためか、市議会には大宮市の再独立を主張する議員が毎回当選しています。

独立運動がぼっ発した練馬

 さて、こうした役所の位置に関する問題はかつて東京の中心でも存在していました。中でも、興味深いのは住民の熱意で区役所が移転した目黒区の事例です。

 戦前の東京市(1889~1943年)は関東大震災後の郊外の人口増加を受けて、1932(昭和7)年に近隣の5郡82町村を編入し35区制を導入します。町村の合併について調査を実施し、人口の基準を14~20万人とすることや地域の沿革や習慣などを考慮することを条件に新区が定められました。

現在の練馬区(画像:(C)Google)



 しかし、それでも弊害はありました。もっとも代表的な事例は現在の練馬区です。

 以前のアーバンライフメトロの記事にもありますが、現・練馬区は板橋区とされたために区役所に出掛けるだけで1日がかりという大変不便な区に。結果、35区制の施行直後から練馬の「独立運動」が始まることに。

目黒区でもあった合併問題

 そして、目黒区でも合併による問題は起こりました。

 目黒区は目黒町と碑衾(ひぶすま)町のふたつの町が合併してできた区です。35区制施行の時点で両方の町の人口は合わせて約10万人。地域の面積もほどよい広さでした。また、合併に先立ち、1927(昭和2)年には東横線が渋谷~丸子多摩川(現・多摩川)間で開通したため、地域の交流も盛んで合併に異論はありませんでした。

 ところが、合併後の区役所の位置が問題に。しかし両方の町には十分な議論の時間がありませんでした。なにしろ、東京府会が合併促進を決議したのが1931年10月、内務省から許可が出たのが1932年5月、その年の10月には目黒区が誕生しています。

 そこで東京市は目黒区役所の位置を、中目黒の正覚寺山門横にあった旧目黒町役場に取りあえず置くことに。しかし、現在の目黒区南部にあった旧碑衾町の町民は当然不便です。なお旧碑衾町の町役場は現在の目黒区碑文谷にありました。

 そこで、旧碑衾町では2度にわたって東京市に陳情を実施し、「貴意に添うようにしたい」との回答を得ました。こうして1936(昭和11)年、中央町2丁目に目黒区役所が設置されることになったわけです。

かつて目黒区役所があった目黒区中央町2丁目。中目黒駅からも目黒駅からも遠い(画像:(C)Google)

 中央町2丁目といえば、目黒区のちょうど中心。しかしその敷地は次第に手狭になっていきます。最終的には増築で、第5分庁舎まで設ける形になっていました。このため、2003(平成15)年に現在の旧千代田生命保険本社ビル(目黒区上目黒)を購入し移転することに。

かつての場所に戻ってきた区役所

 結果として、「旧碑衾町から遠い」と問題になった場所に区役所が戻ってきた形になったのです。ただ、このときは旧目黒区役所は「古くて汚い」「チャンスを逃したらもう用地は出ない」と移転に賛成する区民が圧倒的でした。

現在の目黒区役所の位置(画像:(C)Google)



 ひとつ気になるのが、目黒区誕生にあたって旧碑衾町の名前が使われないことに反対運動が起きなかった理由です。

 実のところ、碑衾という地名は一般的に読みにくく書きにくいと、地元住民から不評で、合併がなければ朝日町に改称する予定だったのです。確かに「碑衾」という漢字は書き間違いそうです。このような理由ですんなりと名称が決まった例は、ほかに聞きません。

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