謎に満ちた「大久保」の由来
新宿区の大久保近辺には独特の異国情緒が漂います。かつて歌舞伎町から大久保までを夜歩くのは少々ためらわれましたが、今ではすっかり平和な雰囲気です。
さて大久保は1丁目から3丁目までありますが、その地名の由来は謎に満ちています。調べてみたところ、説はいくつかあることが分かりました。
地形散歩ライター・内田宗治さんの著作『地形を感じる駅名の秘密 東京周辺』(実業之日本社、2018年)では、
・北条氏家臣の太田新六郎の寄子衆(配下)だった大久保氏に由来
・新宿7丁目にある永福寺の山号の大久保山に由来
・この地に屋敷があった百人組同心の大久保氏に由来
・東大久保村と西大久保村の境にあった大きな窪(くぼ)みに由来
の四つをあげています。
また民俗研究者の筒井功さんの著作『東京の地名:地形と語源をたずねて』(河出書房新社、2014年)では、大久保氏の所領由来と窪地由来のふたつの説があるものの、不詳としています。
そのほかにも由来を論じている文献はありますが、説は
・名前由来
・地形由来
のどちらかに大別されます。
大久保と百人町
しかし地形由来とした場合、疑問が湧いてきます。
なぜなら、JR山手線「新大久保駅」、中央線「大久保駅」ともに駅を降りても、その周囲は平地だからです。
新大久保駅も大久保駅も所在地は百人町1丁目。地名としての大久保はその東側にあり、加えて、多くの人が普段「大久保」として認識しているエリアは、その大半が百人町なのです。
窪地の痕跡はどこにあるのか
駅の歴史を見ると、甲部鉄道の大久保駅は1895(明治28)年に、新大久保駅は1914(大正3)年に開業しています。
現在の地名が百人町にもかかわらず大久保を冠した駅名が付けられたのは、駅開業前の1889年に南豊島郡大久保百人町・東大久保村・西大久保村が合併し、大久保村が誕生していたからです。
この大久保村は現在の大久保1~3丁目はもちろんのこと、百人町1~4丁目、新宿5~6丁目を含んでいました。現在の大久保はかつて西大久保と呼ばれていたエリアで、新宿5~6丁目は東大久保と呼ばれていました。
このことから、現在の大久保と呼ばれる範囲が昔と比べて大幅に縮小したことがわかります。
ということで、当時は明治通りを越えた東側まで大久保だったということになると、窪地の地形に由来して、地名がついた可能性も納得ができそうです。なぜなら、明治通りを越えると新宿区ならではの台地がおりなす坂道があるからです。
では、どこかに窪地の痕跡というものはあるのでしょうか?
実際の地形を見ると……
谷や尾根の判別がわかる国土地理院の陰影起伏図を見ると、大久保駅~新大久保駅エリアはほとんど平地であることがわかります。
少し広い範囲で見てみると、南は新宿6丁目付近から、北は戸山3丁目の学習院女子大の南側あたりまで広い範囲で窪地があることがわかります。
現新宿6丁目にぽっかりと空いた場所
陰影起伏図を見ると、窪地というより谷と呼んでいいような立派な地形ですが、過去はどうなっていたのでしょうか。
1909(明治42)年に測図された地図を見ると、現在の新宿文化センター(新宿区新宿6)付近は周囲の市街地化に比べて、なぜかぽっかりと空いています。現在の新宿イーストサイドスクエア(同)のある一帯には前田邸があり、その裏手は崖のようになって窪んでいます。
市街地化が進んだ今、このエリアの道路を東西に歩いても、少し勾配の上下があるだけのようにしか感じませんが、建物が少なく視界が開けていたなら、広く窪んだ底の平らな窪地の地形が一望できたのかもしれません。
こうしてみると、東大久保村と西大久保村の境に大きな窪みの存在が、大久保の地名の由来であることは間違いないように感じます。
土地の形状が変わった現在、窪地の痕跡を探すことは困難ですが、独特の広い窪みには興味深いものがあります。