ウオーターフロント開発の火付け役 中央区「大川端リバーシティ21」のキラキラ歴史を振り返る
2021年4月16日
知る!TOKYO1986年から2010年まで開発された中央区の超高層住宅地・大川端リバーシティ21。そんな同エリアの歴史について、20世紀研究家の星野正子さんが解説します。
「マンハッタン」がもてはやされた時代
下町の雰囲気が今でも残る佃島(中央区)ですが、その北側にはタワーマンションを中心とした近未来的な風景が広がっています。その名は「大川端(おおかわばた)リバーシティ21」(同区佃2)です。
大川端リバーシティ21は、青山や白金に次ぐ「ステータスゾーン」「マンハッタン化されたエリア」として、かつて注目を集めた湾岸エリア再開発の火付け役です。
「ウオーターフロント」という言葉が出てきた当時は、湾岸や隅田川沿いのエリアをニューヨークのマンハッタンに例えて表現することが、ずいぶんとはやっていました。
鈴木都知事の掲げた「マイタウン東京構想」
大川端リバーシティ21のあるエリアは元々、佃島とは別の、石川島と呼ばれる島でした。江戸時代には人足寄場(浮浪人の収容所)があった石川島ですが、明治時代になると海軍省から石川島修船場の跡地を借りた石川島平野造船所(現・IHI)が設立され、隅田川河口の工業地帯として発展していきます。
時代が流れ、石川島平野造船所も東京石川島造船所、石川島重工業、石川島播磨重工業(1960年に播磨造船所と合併)とその名を変えていきました。

1979(昭和54)年、同社の東京工場(石川島)が手狭になったことから、三井不動産と日本住宅公団(現・都市再生機構)が買収、大規模再開発の対象となっていきます。この際の指針となったのが、同じ年に当選した鈴木俊一都知事の掲げた「マイタウン東京構想」でした。
当時、東京では人口が郊外に流出しており、ドーナツ化現象が深刻な問題となっていました。これに対して「都心への人口回帰」を念頭に、都心部の再開発が計画されました。そのなかでも、まとまった広い土地が確保できた石川島エリアは熱い注目を浴びたのです。
当時の風景は現在とまったく異なっていました。
現在、大川端リバーシティ21は隅田川を挟んだ対岸の新川と中央大橋でつながっていますが、当時は橋が作られておらず、対岸に渡るには月島から佃大橋を渡らなくてはなりませんでした。
有楽町線の新富町~新木場間開業は1988(昭和63)年ですから、再開発計画の始まった1980年代初頭は「陸の孤島」でした。
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