今から90年前 東京「中野区」成立の背景にあった2つの命名説――いったいどちらが真実なのか
2020年10月10日
知る!TOKYO東京23区の西に位置し、新宿・豊島・杉並・渋谷・練馬の各区に接する中野区。そんな同区の名前の由来をご存じでしょうか。フリーライターの真砂町金助さんが解説します。
「合成地名」とは何か
東京のあちこちに「合成地名」があるのをご存じでしょうか。合成地名とは、ふたつ以上の地名からそれぞれの一部を合わせて作った新しい地名で、有名どころでは
・旧大森区 + 旧蒲田区 = 大田区
・清戸 + 柳瀬川 = 清瀬
などがあります。
ほかにも、世田谷区「代沢」は代田と北沢の、足立区「梅島」は梅田と島根の合成地名。文京区「本駒込」は、駒込と呼ばれる地名を冠する地域が豊島区と文京区の双方に存在することから、1966年(昭和41)年に住居表示を実施する際、文京区側が新町名として旧本郷区の駒込という意味で本駒込と名付けたものです(かつて豊島区には駒込妙義坂下・駒込染井、文京区には駒込動坂町・駒込神明町などがありました)。

こうした資料を眺めていると、少々気になることを見つけました。それは、新宿区に隣接する「中野」区の由来です。
中野区の名前の由来とは
中野区は、豊多摩郡を含む周辺5郡が1932(昭和7)年に東京市へ編入されて35区が誕生した際に成立した区ですが、その名前の由来は当時合併した
・中野町
・野方町
から一字ずつ取って作られた合成地名であるというのです。
なぜ筆者が不思議に思ったのかというと、「中野」という名前自体は極めて古くから存在しているからです。初出は熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)に伝わる「武蔵国願文」に記された「中野郷」で、1362(貞治元)年の文書とされています。
その9年後にあたる1371(建徳2)年頃、後に「中野長者」と呼ばれる商人・鈴木九郎が誕生。鈴木氏はもともと熊野の豪族でしたが、九郎は東へ降り、当時まだ住む人も少なかった中野を開拓。財を成したと言われています。
そんな九郎が熊野十二所権現(熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社に祭られている12の神)を祭ったのが新宿区にある熊野神社(新宿区西新宿)で、娘の死を悲しんで仏門に入った後に中野坂上駅近くの成願寺(中野区本町)を創建したとされています。

長らく中野郷と呼ばれていたこの地は、江戸時代になってから行政区画が定められ、中野村という地名に。その後、1897(明治30)年に前述の中野町となりました。
野方の名前の由来とは
一方の「野方」ですが、江戸時代、周辺の天領(江戸幕府直轄の領地)と旗本領(旗本身分の武士の領地)が複雑に入り組んだ地域があり、それを「野方領」と呼んでいたことに由来します。その範囲は、現在の板橋区辺りまで及んでいました。

そして1889(明治22)年の町村制施行の際、現在の江古田や沼袋辺りの村がまとめられ、野方村と名付けられ、1924(大正13)年)に野方町が誕生しました。

New Article
新着記事
Weekly Ranking
ランキング
- 知る!
TOKYO - お出かけ
- ライフ
- オリジナル
漫画