都心から約1000km 小笠原諸島が「日本領」となるまでの苦難の歴史とは

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都心から約1000km 小笠原諸島が「日本領」となるまでの苦難の歴史とは

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大島とおる

離島ライター

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東京から約1000km離れた小笠原諸島。その波乱の歴史について、フリーライターの大島とおるさんが解説します。

東京都から離れること約1000km

 父島、母島、聟(むこ)島、硫黄列島からなる小笠原諸島は東京都の中心から南南東に約1000km離れていますが、所属は東京都で、住所は東京都小笠原村です。

 1000km離れているというのは、南なら鹿児島県の種子島、北なら北海道の美深町あたり。このような比較をするだけでも、東京都の範囲がいかに広いかということがわかります

 そんな小笠原諸島は、江戸時代から、日本はもとより欧米でも存在が確認されていましたが、長らく定住者はいませんでした。しかし19世紀になって欧米で捕鯨が盛んになると、寄港地として重要視されるようになります。

島に入植した国際色豊かな30人

 初めて入植を試みたのはアメリカ人のナサニエル・セイヴァリーとその一行で、1830(文政13)年のことです。

父島(画像:写真AC)



 セイヴァリーはマサチューセッツ州の出身で船員として働いていましたが、けがをしてホノルルで下船、治療を受けていました。そこでイギリスが小笠原諸島への入植を計画していると聞き、参加を決意。当初の入植者は欧米出身者が5人、ハワイなどの太平洋諸島出身者が25人でした。

 入植者の主な産業は、島で育てた野菜や家畜を売るといった、捕鯨船相手の商売でした。当初はイタリア生まれのマテオ・マザロが移民のリーダーでしたが、数年で島を去り、セイヴァリーがまとめ役となりました。

アメリカ、イギリス、日本が領有権を主張

 1853(嘉永6)年、アメリカ海軍のマシュー・ペリーは日本来港の途中に父島に立ち寄り、セイヴァリーをアメリカ政府の代理人として、小笠原諸島の領有を宣言します。

 これは当時の国際法に準拠すると問題ない行為でした。なぜなら、大原則は「早い者勝ち」だったからです。

 まず海の上に領海というものがあり……という考え方が常識になるのは20世紀後半から。それまで島は、最初に見つけた人が自分の出身国でなくとも、「自分の領土だ」と宣言したら認められそうな空気すらありました。海外には、そうして自分の国を築いた人も実際にいます。しかし、大抵はうまくいきませんでした。

母島(画像:写真AC)



 このまま小笠原諸島はアメリカ領になるところでしたが、当時同じく領有を狙っていたイギリスが待ったをかけます。そして、長らく島の存在を認知していた江戸幕府も領有を主張します。

 1862(文久2)年には軍艦・咸臨丸(かんりんまる)で外国奉行の水野忠徳と小笠原島開拓御用の小花作助を派遣し、住民たちの同意を得て日本領であることを宣言しました。

 しかし一筋縄ではいきません。なにしろ諸外国が「わが国が最初に見つけた」「領有を宣言したのはこちらが先だ」と言い出したのです。真偽は不明ですが、幕府は「大昔に放ったニワトリが住んでいるからわれわれの島だ」と主張したとも言われています。

なぜ日本の主張が認められたのか

 このときに日本側の主張が認められたのは、当時の知識人・林子平(しへい)によって書かれた『三国通覧図説』のおかげだったという説があります。

幕府が1861年に咸臨丸を小笠原島に派遣したころの父島。小笠原嶋図絵より(画像:小笠原村)

 林子平は『海国兵談』を書き、四方を海で囲まれている日本にとって海防がいかに重要かを説きましたが、幕政批判にあたるとして版木(文字などを彫刻した木版)を没収されたことで知られ、その際に

「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」

と語っています。

 領有が問題になった頃、子平は既に世を去っていました。しかし『三国通覧図説』には日本の地理が記されていることから、長崎の出島を通じて持ち出され、ヨーロッパの各言語に翻訳されていたのです。そして、この中で小笠原諸島が日本領とされていたことが決め手になったと言われています。

 ただ、当時の資料にはこの本が用いられたという記録はなく、実際に役立ったかは定かではありません。

戦後、アメリカの統治下に

 その後、日本人の入植や生麦事件(1862年)で日英関係が悪化しましたが、1876(明治9)年、明治政府は改めて小笠原諸島が日本領であることを宣言し、ここに日本の領有が確定しました。

 そして最初に入植していた欧米系島民も日本に帰化し、セイヴァリー家は「瀬堀」、ワシントン家は「太平」などの名字に改めることとなりました。

 月日はたち、太平洋戦争が開戦。戦略的要地だった小笠原諸島の島民は日本本土へ強制疎開されます。このときの住民は6886人でした。

 硫黄島を除いて、戦場とならなかった小笠原諸島ですが、戦後はアメリカの統治化となり、欧米系住民以外は帰還が認められなくなりました。

 しかし、旧島民が小笠原島・硫黄島帰郷促進連盟を結成。小笠原村役場は東京都港区に置かれ、日本領への復帰を求めていくことになります。一方、わずかな欧米系住民が帰島した小笠原諸島は完全なアメリカ領となり、学校の授業は英語、商店の品物はグアムから送られてくるように。

美濃大垣藩士の宮本元道が調査団や島民、島の人々の様子などをまとめた『小笠原島真景図』(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)



 このままアメリカ領となる可能性もあった小笠原諸島ですが、1967(昭和42)年に当時の佐藤栄作首相とジョンソン大統領が返還で合意。1968年に返還へと至ったのです。

 その後、公用語は日本語となり、欧米風の名前の住民たちも再び日本人として日本名を名乗るなど混乱もありましたが、現在は融和が進み、他民族が共生する、日本でも極めて独特の文化を持つ島となっています。

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