江戸に現れた「青い目のラストサムライ」
箱館戦争(1868~1869年)を戦った“青い目のサムライ”がいた――。
フランス軍人のジュール・ブリュネ大尉。本当の意味のラストサムライはこの人、と筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は思っています。
幕末期に、幕府の兵士を訓練するため、招聘(しょうへい)されて来日したフランスの軍事顧問団。
その副団長・砲兵隊長を務め、横浜の太田村野毛で幕兵らに砲術を教えるかたわら、倒幕を狙って江戸をかく乱させる薩摩藩邸目がけて、自ら指揮して大砲を撃ち込んだつわものです。
2000人を率いて品川沖から出帆するも
戊辰(ぼしん)戦争が起こり、江戸城が開城になると、旧幕府方の武士たちは、薩摩・長州中心の新政府に憤まんを抱き、抵抗します。
ブリュネはひそかに旧海軍副総裁の榎本武揚(えのもと たけあき)と会い、部下のカズヌーブ伍長とともに合流し、江戸・品川沖から2000余人を8隻の艦隊に分乗させて出帆し、蝦夷(えぞ)地へ向かったのです。
1868(明治元)年冬、五稜郭(ごりょうかく。現在の北海道函館市)を奪い、松前藩を鎮圧した榎本軍は、蝦夷島臨時政権を樹立し、総裁に榎本を選出。ブリュネは参謀に就任します。
しかし翌年4月、新政府征討軍の反撃に遭い、敗色濃厚になった同年5月1日、ブリュネは
「戦いは敗れた。日本の友人に対して心が痛むが、万事休した」
の書面を残し、戦線を離脱しフランスに帰国します。
間もなく五稜郭は開城になり、戦争は終結します。
渡仏した筆者が見せられた3本の日本刀
別の取材でフランスを訪れたとき、思いがけずブリュネのひ孫のエリック・ブリュネさんに会い、初めて「タイクンの刀」を見せられたのです。
タイクン(大君)とは最後の将軍、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を指します。将軍とフランス軍人という取り合わせに、筆者は興味を抱きました。
しかし、見せられた日本刀は
・大刀
・脇差し(わきざし)
・短刀
の3振りで、どれが「タイクンの刀」なのか見当もつきません。
これを機に資料を集めて、ブリュネが優秀なフランス軍人であり、絵画に優れ、多くの作品を残していたこと、将軍慶喜と謁見(えっけん)したとき、許可を得て慶喜の姿を描いていたことなどを知ったのです。
ブリュネはいつ、どこで、将軍慶喜から刀を受け取ったのか――。
調べたところ、ブリュネが慶喜と会ったのは2度。最初は、来日して3か月ほど経過した1867(慶応3)年3月27日の、江戸城での使臣謁見(ししんえっけん)です。
夕刻、公使ロッシュ、シャノワンヌ顧問団長、ブリュネ、それにデシャルム騎兵隊長が謁見し、言葉を交わしています。ブリュネが許可を得て慶喜の姿を描いたのはこのときです。
以上は『幕末維新外交史料集成』第1巻によります。しかし、刀を渡したという記録はないのです。
残る謎――慶喜はいつ日本刀を渡したのか
もう一度の謁見は、1868(慶応4)年1月15日、江戸城の「大評定」の席上です。
すでに戊辰戦争の火ぶたが切られ、慶喜は朝敵(天皇と朝廷に敵対する勢力)とされていました。
大評定は抗戦を唱える主戦派と恭順派に割れて紛糾し、ブリュネと並んで出席したシャノワンヌは「戦えば勝つ」とゲキを飛ばしています。
このような状況下で慶喜がブリュネに刀を手渡すことなど不可能と判断しました。
驚きの事実 松前藩の「衛府の太刀」
しかし、肝心の「タイクンの刀」は、3振りの刀のうちどれなのか。
今度は東京にいる友人の刀鑑定士に同行してもらい、またフランスへ。鑑定の結果、短刀がタイクンの刀と判明しました。
16世紀に造られた古刀で、「兼分」の銘が刻まれている逸品でした。
そして脇差しは、驚いたことに松前藩の「衛府(えふ)の太刀」といって、天皇を守備するときに藩主が腰に差すものと判明したのです。
松前のものなら、蝦夷島政権の陸軍奉行並の土方歳三が指揮して、松前藩を攻撃し落城させたときのものということになります。
となると、戦利品として歳三がブリュネへ渡した可能性が出てきます。
もうひとつの大刀は、名もない粗雑なものでした。ブリュネはなぜこれを祖国まで持ち帰ったのか……。考えているうち、ハッとなりました。
「日本のために戦うのだ」という決意
品川沖を脱走する直前、ブリュネとカズヌーブは、横浜の駐日イタリア公使館の新築祝いに出席し、仮装舞踏会で日本武士に仮装してダンスを踊っています。
そのときに差した刀がこれ、と仮定すると筋が通ってきます。今、フランス軍人を捨て、日本のために戦うのだ、という決意とも思えるのです。
ダンスを終えるとふたりは、会場にいたフランス公使ウトレー(ロッシュの後任)の前に進み出て敬礼し、さらにシャノワンヌにも敬礼しました。
ウトレーには分からなかったでしょうが、シャノワンヌはその決意を見抜いていたのではないでしょうか。
ふたりは仮装姿のまま玄関を出ると、用意されていた馬に飛び乗り、駆け出しました。
横須賀港へ。ここから榎本の待つ江戸・品川へ。ドラマでも見るような鮮やかな脱走劇だったでしょう。
だからこの仮装用の名もない大刀は、彼にとってかけがえのないものと思えるのです。
※ ※ ※
『大君(タイクン)の刀 ブリュネが持ち帰った日本刀の謎』(2007年、北海道新聞社刊)を出版してもう13年にもなります。
先年、フランスのエリックさんから、フランス語版「ブリュネ」の本が送られてきました。
パリからは大学生ふたりが、卒業記念のドキュメント映像を制作するためと、映像カメラを担いでやってきました。
“青い目のサムライ”がよみがえってくるような心境になりました。