都内で会える「岡本太郎」 感じろ、そして叫べ「芸術は爆発だ!」

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都内で会える「岡本太郎」 感じろ、そして叫べ「芸術は爆発だ!」

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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「芸術は爆発だ!」にフレーズで知られる芸術家・岡本太郎。都内ではそんな氏の作品の数々を見ることができます。都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。

都内にいくつもある岡本太郎スポット

 芸術家・岡本太郎を知っている人は多いでしょう。後年にはたくさんのパブリック・アートを手がけ、そのひとつ『天に舞う』はNHKスタジオパークの玄関に展示されていました。

「されていました」というのは、2020年の春から猛威をふるったコロナ禍の影響で、スタジオパークが5月に閉館となってしまったからです。閉館後の行き先は未定とのことですが、一日も早く公開が復活してほしいと思います。

 都内には、スタジオパーク以外にも、岡本太郎の作品をいつでも見られるところがいくつかあるので、今回はそれらを巡ってみたいと思います。

コミックヒーローのような側面を持つ太郎

「芸術は爆発だ!」や「何だ、これは!」など、数々の名言を残したことでも知られる岡本太郎は、おそらくファインアート(芸術的な意図のもとに制作される美術)の作家の中で、もっともその名が知られた日本人だと思います。

 そんな岡本太郎とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。作品巡りの前に、岡本太郎の人物像をちょっとみてみたいと思います。

岡本太郎記念館にたたずむ本人の等身大マネキン(画像:黒沢永紀)



 1911(明治44)年に川崎市で生まれた岡本太郎。父の一平は漫画家で、母のかの子は作家でした。芸術一家に生まれた宿命のように、幼少より作画をたしなんでいましたが、その頃は芸術の道を目指すことに迷いもあったようです。

 1929(昭和4)年、18歳になった太郎は東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)に入学するも、程なくして渡仏。そこで出会ったセザンヌの絵画に衝撃を受けますが、数年後に再び見たときには「もはや超えたな」と実感したといいます。

 その後、ピカソの作品に出会ったときも衝撃を受けますが、やはり自分の中で乗り越え、後年になってピカソに出会ったときは、穏やかな気持ちで話ができたようです。

 限りない衝撃に打ちのめされては、その都度自力で克服する太郎からは、コミックヒーローのような人物像も見えてくるのではないでしょうか。

 パリでは当初抽象絵画に傾倒しますが、すぐにその限界を感じ、シュールレアリスムの作家たちと交流、作風も具象を交えたものへと変化していきます。また、思想家のバタイユや人類学のモース博士とも交流し、芸術以外の素養を身につけていったのもこの頃でした。

 おりしも第2次世界大戦が始まり、ドイツ軍がフランスへ迫ると、やむなく帰国した太郎は軍人となって中国へ出兵。六か月の捕虜生活を経て帰国しています。

原始のパワーに共鳴した太郎

 戦後、国内で活動を再開した太郎は、せきを切ったように作品を制作し、数々の名作を生み出します。

 ナイフを隠し持った女性が寓話(ぐうわ)的な森に向き合う『夜』をはじめとした当時の作品の根底には、抽象と具象という相反する要素を1枚の絵の中で戦わせる対極主義という考えが反映されていました。

 この作品は、評論家の花田清輝と結成した前衛芸術の研究会「夜の会」の会名にもなっています。

サロンの展示されたそうそうたる太郎作品(画像:黒沢永紀)



 また、パリでモース博士に出会って以来、悠久の太古に魅了されていた太郎は、1950年台に入って縄文土器の魅力に取りつかれ、のめり込んでいきました。それまで考古学的な観点でしか取り沙汰されなかった縄文後期の火焔式土器に、美的価値を与えたのも太郎の功績です。

 原始のパワーに共鳴する太郎は、やがて沖縄発祥の地とされる久高島へ赴き、島の秘祭「イザイホー」と「御嶽(うたき)」に出会いました。御嶽の“何もない”神秘性とパワーに心打たれた太郎は、そこで日本の神性に気づき、自分を再発見すると同時に覚醒します。

 しかし、久高島の風葬にも感銘を受けた太郎が、その様子を週刊誌に発表したせいで、心ない観光客に「後生(ぐそー)」とよばれる風葬墓を荒らされてしまうという悪い結果も生み出してしまいました。

 それ以降、久高島では後生を公開することなく、島民だけで静かに守っています。週刊誌への掲載は、島民に案内され、許可を得てのことだったようですが、今でも久高島で岡本太郎の名は禁句といえるでしょう。

芸術とコマーシャリズムの間で活躍

 1970(昭和45)年。太郎は、世界最大の規模で開催された大阪万国博覧会、通称「EXPO70」で、最大の代表作である『太陽の塔』を製作します。その際にマスコミから浴びた「前衛芸術家が国家事業に加担していいのか?」の問いに対して、太陽の塔が体制へのアンチテーゼだと答えた太郎。

2018年に一般公開された『太陽の塔』(画像:黒沢永紀)



 たしかに「進歩と調和」というテーマで、未来予想図のような世界が繰り広げられた大阪万博の中で、生物の進化を展示した太陽の塔の『生命の樹』は、異色といえば異色なもの。しかし、これも対極主義の思想を太郎流に反映したものでした。

 太陽の塔で一躍脚光を浴びた太郎は、マスメディアにも頻繁に登場し、マクセルのビデオカセットのCMで放ったかの名言「芸術は爆発だ!」は、後世にも語り継がれます。

 また各種ノベルティ商品や広告の制作依頼も、名声を落とすという理由で反対する周囲の声をよそに、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言って、本人は積極的に楽しんでいました。

 そんな太郎は、日本美術界の大勢から認められることはありませんでした。アトリエという殻をいとも簡単に飛び出し、あらゆる場面で活躍する太郎を、世界からはるかに後れをとっていた当時の日本の美術界は理解ができなかったのでしょう。もちろん、やっかみもあったのかもしれません。

 晩年、太郎は最初に描いた自分の絵をみて、これだけいろいろやってきたが、結局自分は何も変わってなかったという言葉を残しています。

 20世紀を照らし続けた太陽ともいえる孤高の天才は、1996(平成8)年、84年の生涯に幕を閉じました。

都内で見られる太郎のパブリックアート作品

 そんな太郎の作品は、国内各地にパブリックアートとして展示され、常時見ることのできる作品も数多くあります。

 都内でもっとも知られるのは、2008(平成20)年にJR渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅の連絡通路に恒久展示となった『明日の神話(あすのしんわ)』(1968~1969年)でしょうか。

渋谷駅に恒久展示されている『明日の神話』(画像:黒沢永紀)



 1954(昭和29)年に起きた第五福竜丸の事件をテーマに、被爆と再生を描いた幅30mにも及ぶ巨大な作品。岡本太郎の養女で実質的な伴侶だった敏子さんが、『太陽の塔』と双璧をなす最高傑作と言う通り、太郎のエネルギーが爆発した圧倒的な存在感のある作品です。

 有楽町にある数寄屋橋公園(中央区銀座)では、『太陽の塔』の習作ともいえるような作品『若い時計塔』(1966年)を見ることができます。

 細長い円すい台の上にシチズンの時計が載るオブジェのような作品で、円すい台の周囲に飛び出すたくさんの曲がりくねったツノは、人間が本来持っている意欲と情熱のほとばしりを表しているとか。

 また、すでに閉館した青山のこどもの城の前庭にも『こどもの樹』(1985年)と題した作品があります。

 こちらはその場所柄、ユーモアあふれる表情の顔が付いた枝がたくさんある樹木。死ぬまでジュブナイル(少年少女向け)性を持ち合わせ、子どもの芸術育成に尽力した太郎ならではの作品だと思います。

「きれいなものなんか芸術じゃない」

 パブリックアートではありませんが、青山の岡本太郎記念館(港区南青山)では、たくさんの太郎作品に触れることができます。1954(昭和29)年から晩年までアトリエ兼住居だった建物を改装したもので、太郎のほとんどの作品を生み出した「震源地」ともいえる場所。

 記念館に入って最初に圧倒されるジャングルのような庭には、悠久の太古に創作の原点を求めた太郎の面影が見て取れるでしょう。ジャングルの中で頬づえをついてほほ笑むのは、自らの墓石にもなっている『午後の日』。子どものような性格も持ち合わせた、太郎の一面をよく表している作品です。

 『午後の日』のすぐ横には『犬の植木鉢』もあります。犬というよりも種目不明の印象ながら素朴な可愛いさのある動物で、どこにも属さないけれど常に楽しさを忘れないという、これも太郎らしい作品ではないでしょうか。

 また、中庭にたくさん置かれた『座ることを拒否する椅子』は、決して安住を求めない太郎の挑戦的な生き方が反映した作品です。

岡本太郎記念館の中庭に展示されている作品群。「座ることを拒否する椅子」(左)、『午後の日』(左上)、『犬の植木鉢』(画像:黒沢永紀)



 サロンとよばれるリビングにも、太郎の手による作品模型が所狭しと陳列されています。積水ハウスの広告にもかかわらず企業名が一切書かれていない飛行船『レインボー号』や前述の『こどもの樹』、相模原市の商店街活性化に向けて制作した『呼ぶ赤い手、青い手』など、一堂に会した著名作品の数々には圧倒されることでしょう。

 なんと、サロンの奥には鋭い眼光でこちらをにらむ岡本太郎が! 自らシリコンに埋まって制作したマネキンは、まさに本人がそこにいて、今にも語りかけてきそうです。

 サロンに隣接するアトリエは、ほぼ太郎が使用していたときのまま保存され、創作に命を燃やした太郎の息遣いが、いまでも感じられるようです。敷地の裏手にも太郎らしいデザインの門扉をそのまま残すなど、隅々まで飽きさせません。

 常に逆転と対極の発想で作品に挑み続けた太郎。きれいなものなんか芸術じゃない。何なんだ、これは!? と思わせることが、芸術であり生きることだと叫び続けた太郎の作品は、どれもエネルギーに満ちあふれたものばかりです。

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