江戸時代にバーチャル登山体験? 国内最古の富士塚「千駄ヶ谷富士」でその歴史を振り返る

千駄ヶ谷にある国内最古の富士塚・千駄ヶ谷富士について都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。


富士塚とは何か?

 JR千駄ヶ谷駅から南へ徒歩5分。将棋の神様で知られる鳩森八幡宮(渋谷区千駄ヶ谷)の境内の一角に、高さ約5mの円錐形の山があります。かつて江戸の町にあまたあった富士塚のひとつ「千駄ヶ谷富士」。富士塚とはなんでしょうか? 今回は都会の中に忽然と現れる富士山の話です。

千駄ヶ谷富士の正面登山道の入口(画像:黒沢永紀)



 江戸時代、信仰とともに庶民の間に浸透し、たくさんの人が詣で、縁日で賑わいながらも、大正時代以降急速に衰退してしまった富士塚は、もともと霊峰富士への信仰から生まれたものでした。同時に、富士山へ登りたくてもなかなか行けなかった時代の、手軽な疑似登山の役割も担っていたようです。

 疑似登山というだけあって、ただ富士山のような形に造るだけではなく、盛り上げた土の表面には、実際の富士山から運んだ黒ボク(溶岩)をあしらい、山頂や山麓には浅間(せんげん)神社を奉り、また1合目から順に合数を表示するなど、いわば富士山をミニチュアで再現したのが富士塚です。

 では、なぜ富士山を模造した富士塚が関東一円にたくさん築山されたのでしょうか。どうやらそこには日本人と山の深い関係があるようです。

 古来日本には山そのものを神として崇める風習があり、特に平地から見てひときわそそり立っている山は、富士山に限らず神として敬われてきました。

山岳信仰とは何か?

 そしてこの山の崇拝が、神道や道教と融合して、奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)によって宗教として確立されたのが、時代劇などでも時々耳にする「修験道(しゅげんどう)」、そしてその教えを実践するのが「山伏(やまぶし)」です。

赤い目印の場所が鳩森八幡宮(画像:(C)Google)



 山伏は日夜霊山にこもって修行(と言っても一日中、山の中を何十kmも歩いたりするだけみたいですが)を積み、「法力」を身につけては、不治の病を治したり、無くなったものを見つけたりする超能力者になったそうです。ちなみに、山中での修行によって神になるのは、道教の媽祖(まそ)なども同じで、道教が修験道のルーツのひとつだったことがわかります。

富士信仰とは何か?

 2013年に富士山が世界遺産に登録されたのはご存知のことと思います。従来の自然遺産としての方針から一転、日本人の心のよりどころ、すなわち文化遺産としての申請が登録の決め手になったのは、記憶に新しいことです。

中腹の岩屋に鎮座する身禄像。先の大戦で落ちていた首は1982年に修復された(画像:黒沢永紀)

 霊峰富士は、古(いにしえ)の時代より特に霊剣あらたかな山として、遥拝(ようはい。神仏などを遠く離れた所から拝むこと)の対象とされてきました。各地の霊峰とは別に、富士山への信仰が成り立つきっかけは、戦国時代の角行(かくぎょう)という修験者によってと伝えられます。

 角行も、富士山中で修行を積み、法力を身につけたひとりでした。実際に不治の病を直したことから、角行の霊験にあやかろうと、角行と富士山を信仰する民間の集まりが徐々に広がっていくことになります。江戸時代に入って富士山を崇拝する人々が集まり、角行を開祖として結成された講社(信仰を元にした会合組織)が「富士講」です。

 その後、角行の6代目(数え方によっては5代目)の弟子にあたる食行身禄(じきぎょうみろく)が、「生類憐れみの令」や米飢饉の救済のために、富士山の七合付近にあった烏帽子(えぼし)岩の近くで31日の断食の末、1733(享保18)年に入定しました。

 身禄は勤労を奨励すると同時に、性差や身分差の協調や世直しの必要性など、封建時代の当時としてはとても柔軟な思想の持ち主だったようです。富士山登拝に必要とされた百か日精進も、五徳(正直・慈愛・愛隣・知足・堪忍)を守れば行わずとも登山してよし、という教えが広く受け入れられ、身禄の入定後、富士山へ登拝する人が爆発的に増加しました。

 身禄は、いわば富士講をブレイクさせた人物というわけです。その後富士講は増え続け、江戸の後期には「お江戸八百八講」といわれるほどだったといいます。

富士塚の誕生

 記録に残る日本で一番古い富士塚は、1779(安永8)年、身禄の直弟子で造園師だった藤四郎が、新宿区戸塚に築いた「高田富士」と伝わります。

千駄ヶ谷富士を築山した烏帽子岩講のマークが彫り込まれた石碑(画像:黒沢永紀)



 これは身禄追悼のためになにか形に残るものを、と思った藤四郎が得意の造園技術を生かし、富士山の黒ボクを山肌に貼り付けるなどして造ったもので、こうして出来上がった富士塚は「駿河の富士に正写し」とまでいわれたとか。

 当時は富士山に女性や子どもが登ることは禁じられていたので、それら婦女子や、体が弱い人、また経済的に恵まれない人など、富士山を信仰する気持ちがあっても実際に登れない人たちに、少しでも富士山の山肌を感じてもらおうという目的もあったようです。

 これが江戸で人気を呼び、以降続々と江戸市中に富士塚が造られるようになり、その中のひとつが千駄ヶ谷を中心に活動していた烏帽子岩講という富士講が造った千駄ヶ谷富士でした。

 残念ながら、最初の高田富士は、早稲田大学の校舎拡張の際に壊され、現在は近隣の水稲荷神社にその一部しか残っていません。千駄ヶ谷富士は、関東大震災で一部が崩壊しているものの、築山当時の場所にほぼ当時の姿で残る国内最古の富士塚です。

 なお、千駄ヶ谷富士の築年に関しては、先の大戦の戦禍で、鳩森神社とともに、神社にあった富士塚の資料もすべて焼失してしまったため、ずっと謎に包まれていました。塚内や境内の狛犬や灯籠など刻まれた年号から、さまざまな説がとなえられましたが、今のところは1789(寛政元)年という説が有力のようです。

千駄ヶ谷富士を登拝する

 千駄ヶ谷富士は裾野の外周が約35m、南北約10m、東西約12~13mで、高さは約5m。これは都内を中心に関東一円に造られた数多くの富士塚の中では中庸な規模で、登山口はほぼ方位通りの4か所にあり、登山道は上に登るに従って合流していく造りになっています。

富士塚の裾野にある浅間神社の本宮(画像:黒沢永紀)



 正面(南向き)の登山口の周囲には御清池があります。これは富士山の北側に今も残る富士五湖に、明見湖(あすみのうみ)、志比礼湖(しびれのうみ・四尾連や神秘麗とも)、泉津湖(せんずのうみ・現在は水枯れ)の3つを加えた富士八海を模したもので、富士講徒が富士登拝の際に、一緒に巡礼した霊地を表しています。

 富士塚築造の際に盛り土を掘り出した跡を転用したもので、現在では随分浅く、水を湛えているのも見たことがありませんが、戦時中は池に入って戦火を逃れるほどの深さがあったといいます。

 西の登山口には、富士塚の中で最も大きな施設の浅間神社里宮があります。古来日本では高い山の形容として「浅間(せんげん)」という言葉を使ってきました。日本一の富士も、富士の裾野には多くの浅間神社が祀られています。

 また東の登山口から登ると、五合目付近に「小御嶽(こみたけ)石尊大権現」の石碑があります。富士山にもある小御嶽神社は、特に五合目付近を反時計回りに巡礼する「御中道巡り」の拠点として重要な場所。前述の千駄ヶ谷富士の築造年は、純粋に富士塚の為にしか造られることのないこの石碑の年号が決め手になったようです。

実際の富士山を拝む場所でもあった富士塚

 唯一鳥居と狛犬が置かれた正面の登山口から登ると、程なくして五合目へたどり着き、御中道巡りの道が左右に続きます。右には、烏帽子岩と、洞窟で入定した身禄の像があり、その先に小御嶽石尊大権現へと続きます。

築造年判別の決めてとされた「小御嶽石尊大権現」の石碑(画像:黒沢永紀)



 さらに正面の登山道を登ると、やがて頂上へ到着。頂上には黒ボクで囲まれた岩屋に小さな奥宮があり、周囲には金明池や銀明池、そして釈迦の割れ石など、実際の富士山のお鉢と同じ名所があしらわれています。

 富士講徒にとって富士塚は、登拝するのはもちろん、実際の富士山を拝む遥拝所としての役割も担っていました。塚によっては山頂に「遥拝所」の文字が刻まれた碑が立つところもあり、すべての富士塚はその山頂から富士山が見える所に造られていたようです。しかし、千駄ヶ谷富士の山頂から見えるのは育った樹木とその奥に建つビルだけ。令和の今、富士山を見ることはできません。

 これら富士山を模した石碑や人造石以外に、山中には実にさまざまな石碑が点在します。最も多いのは講の文字があしらわれたもので、千駄ヶ谷富士を築山した烏帽子岩講以外にも、いくつかの講名が確認できます。これは、親交のあった近隣の講からの寄贈、ないしは失われた富士塚にあった講碑の移転とのこと。

 また、講碑以外で興味深いのは御清池の左端にある「猪鹿塚」。徳川十四代将軍の家慶公が鹿狩りをした時の猪と鹿を埋めた塚碑といいます。家慶はよく鹿狩りをし、お供の武士たちは将軍から獲物をもらっては、そのエピソードを書に認め、碑文を作るのが流行った名残です。

かつて、都内各所の講が白装束で隊列をなした

 上記以外にも大小さまざまな石碑がいたるところに配置されていますが、これらの出自はほとんどが謎に包まれ、鳩森神社の宮司によれば、おそらく近隣の寺社や屋敷などからの摂社ないし奉納されたものだろうとのこと。塚の大きさに対しての石碑の数を思うと、石碑塚といっても過言ではありません。

黒ボクで囲まれた山頂の奥宮。周囲には金・銀明池や釈迦の割石などが配置されている(画像:黒沢永紀)



 十条や品川などいくつかの富士塚は、現在も存続する講によって、年に一度の祭事が開かれるところもあるそうですが、この千駄ヶ谷の富士塚は、烏帽子岩講が消滅してしまった今、生きた役割は果たしていません。かつて6月3日の祭日には、都内各所の講が、代々木駅から白装束で隊列をなし、唱名を唱えながら集った時代もあった、と地元の古老に聞きましたが、それも今ではなく、鳩森八幡宮が形式程度の祭事を行うだけです。

 こういった講の人たちの神聖な儀式とは別に、一般の庶民にとっては遊山的な楽しみでもあった富士塚詣で。この千駄ヶ谷富士も江戸末期の頃になると、境内はたくさんの出店で賑わったそうですが、もちろん富士詣での出店がならぶこともありません。

 思えば、富士塚は江戸時代にできたバーチャル・テーマパークとも言えます。さすがに1メートル前後の高さでは登る感覚は味わえませんが、千駄ヶ谷富士くらいの高さがあれば、じゅうぶん登る感じを体感できます。四方に造られた登山道を歩きながら、所々に配置されたモニュメントを拝み、富士登拝と同じ霊験を体験した後は、境内の周りのお店でお楽しみ。といった江戸の人たちの感覚を体感してみてはいかがでしょうか。


【写真】懐かしい、そしてなぜか落ち着く……都内にある路地裏の風景(8枚)

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