完成までわずか1年余 太平洋戦争が生んだ幻の遺構「成増飛行場」とは何か

練馬区光が丘に広がる大規模団地。この場所にはかつて日本軍の成増飛行場がありました。なぜ成増が首都防衛の適地に選ばれたのか。ルポライターの昼間たかしさんがその歴史をたどります。


街路樹を生かした作りの「光が丘パークタウン」

 練馬区光が丘は戦後、米軍の家族住宅「グラントハイツ」として開発された後に、日本へ返還され、大規模団地「光が丘パークタウン」として造成された住宅地。

 都営大江戸線が開通してからというもの、都心に直結している便利な地域になりました。

 昭和に開発された地域ならではの、街路樹を生かした道路は整っていて、いまだに生き生きとした雰囲気が漂っている地域です。

 イオンのほか専門店街が集結しているショッピングモール「光が丘IMA」(練馬区光が丘)も2020年12月までリニューアル工事が行われていますし、ちょっと古い団地と思いきや、ますます発展しそうな様子です。

 しかし、イオンは以前ダイエーだったことや、光が丘テアトル西友という映画館がかつて入居していたこともだいぶ昔の話になってしまいました。

一大ニュータウンの過去の顔

 さて、そんな光が丘。戦後、最初は米軍家族向けとして住宅開発が行われた理由は、日本陸軍の「成増飛行場」があり大規模な土地が確保できたからです。

 戦前まで、この地域は板橋区(まだ練馬区はありません)に所属していたものの、人家はまばらな土地でした。

 現在、光が丘公園になっているところの北のあたりには「お玉が池」という池がありました。谷あいの水がたまったような池で、そこから流れ出た水は白子川を経て新河岸川へ注いでいました。

 今でも、水量は少ないものの池の名残は残っています。

 当時は、湧き水地だったのでオタマジャクシがたくさん泳いでいるような比較的大きな池で、周囲は森になっていたといいます。

 人家がまばらな地域ですから、昭和初期にはここに火葬場を建設する計画もあったようですが、地域の発展を妨げるとして住民が反対して中止になっています。

土地の運命を変えた戦争の記憶

 この地域が大きく変貌を遂げたのは、太平洋戦争が理由でした。

 1942(昭和17)年4月、アメリカ軍は航空母艦から爆撃機を発進させ、初の本土空襲を実行。奇襲攻撃によって首都を空襲されたことに驚いた日本軍は、首都防衛のために新たな飛行場建設を計画します。

 そこで適地として選ばれたのが、現在の光が丘一帯でした。

太平洋戦争の際に建設された成増飛行場(画像:練馬区)



 首都防衛という理由だったため、住民たちに対する立ち退きは強制でした。住民に向けての説明会は開かれましたが、実態としては「立ち退きのお達し」だったようです。

 当時を知る住民によれば、1943(昭和18)年の6月に板橋区役所から区役所まで実印を持って来るようにとの通知があったといいます。

 住民が区役所に行くと、職員がハンコを受け取って土地の明け渡しを認める書類に押印するという、かなり強引なやり方だったといいます。

 もちろん強制とはいえ、買収に関わる費用は支払われました。その金額は坪あたり宅地15円、畑10円、水田や山林5円というものです。

 当時の物価価値を見てみると、米1升(約1.5kg)が1940(昭和15)年で43銭ですので、現代の感覚では坪あたり数千円ということでしょうか。

囚人まで動員した急造の飛行場

 いくら当時は郊外だったとはいえ、住民はたまったものではありません。しかも戦時とあって代替地や引っ越し代、農作物への補償は無し、家の建て替えに必要な物資だけは現物で支給するというものです。

 この工事によって立ち退きになったのは80世帯ほどでした。その工事も相当な突貫工事です。

 立ち退きになる住民を役所に呼び出して書類にハンコを押している間に、もう工事は始まっていました。なにしろ同年8月には、飛行機が飛べる状態にするというのが目標だったからです。

 立ち退きになる住民が親せきや大工を呼んで大急ぎで荷物を運び出し、家を解体して移転していく横では、もう工事が行われているというありさまです。

都心から見て北西に位置する、成増飛行場の跡地(画像:(C)Google)



 今のように建設機械もないため、工事は人海戦術で行われました。

 陸軍の近衛師団と第一師団で構成された赤羽工兵隊に始まり、近隣の在郷軍人会や産業報国会などから人を動員します。

 それでも人は足りなくて、朝鮮半島からの出稼ぎ労働者や学生も集めます。ついには豊多摩刑務所(現在の中野区新井の「平和の森公園」)から囚人を呼んできて働かせます。この工事は相当に困難なものでした。

 というのも、多くの川が流れる地域ですから、川の周囲は低地になっています。土地の中央に田柄川(現在は一部が田柄川緑道になっている)が東西に流れており、その周囲は田んぼで、南北は高地になっています。

飛行場の遺構は残されなかった

 そこで、まずは川を暗渠(あんきょ。地下水路)にし、北と南の高いところを削って田んぼを埋めて土地をならしていくのです。工事現場には幾本もの線路が敷かれてトロッコで土が運ばれていました。
 
 こうして1943(昭和18)年秋には1200mの滑走路が出来上がり、程なく本格的な基地として稼働します。

 飛行場には、第1航空軍第10飛行師団の飛行第47戦隊、第43飛行場大隊、航空廠(しょう)立川分廠成増分遣(ぶんけん)整備隊が駐留しました。

 1944(昭和19)年になると本土空襲が本格化します。そのため第10飛行師団は、高高度を飛ぶアメリカの爆撃機B29に対抗するため、装備や防弾設備を外した飛行機で高高度へ到達し、B29への体当たり攻撃を行う「震天制空隊」を編成したことも記録されています。

 これはつまり特攻なのですが、パイロットは貴重ですから体当たりしながら本人は脱出して帰還することを要求されたといいますから、今考えるとむちゃくちゃです。

現在の光が丘パークタウン。エリア内に警察署や小中学校、テニスコートなどもある(画像:(C)Google)



 さて、そんな飛行場の周囲にあった人家には、面会に来た兵隊の家族が宿泊することも多かったといいます。当時を知る人によれば、戦後になっても土地の名産を贈ってくれるなど、付き合いは長く続いたといいます。

 もう飛行場の遺構はほとんどありませんが、板橋区の赤塚新町の住宅地には当時の掩体壕(えんたいごう。空襲から戦闘機を守り隠しておくための格納施設)が残っています。


【画像】終戦、そして復興――「成増飛行場」跡地の移り変わりを見る(9枚)

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