マニア垂涎の品ぞろえ! 東京・神保町が「世界一の古書店街」になったワケ

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マニア垂涎の品ぞろえ! 東京・神保町が「世界一の古書店街」になったワケ

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小西マリア

フリーライター

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東京の神保町は、「世界一の古書店街」と称されるほど古書店が集まっています。でも、そもそもなぜこのような街が形成されたのか、ご存じですか? 歴史の経緯をフリーライターの小西マリアさんがたどります。

古書店は一体いつから増えたのか?

 東京のレトロタウンのひとつに数えられる神保町。古書店街として栄えてきたこのエリアも、次第に老舗が店を閉め、雰囲気は変わろうとしています。

「世界一の古書店街」と呼ばれる神保町。一体いつから古書店が集まったのか?(画像:(C)Google)



 現代では、古書を探す際、神保町の古書店も多く出店している東京都古書籍商業協同組合(千代田区神田小川町)が運営するサイト「日本の古本屋」で検索する方が、早く正確に見つけられることもあります。

 それでも、本の街として神保町の価値は落ちることがありません。

 ところで、そんな神保町の古書店街は、どのようにしてできたのでしょうか。

江戸時代、商店はひとつも無かった

 一般的には、周囲に大学や教育機関が多いからだと思われています。

 明治大学、日本大学、専修大学、共立女子大学、移転しましたが東京電機大学や中央大学もありました。また閉校してしまいましたが、与謝野晶子らが創設した文化学院や、研数学館なども。

 そんな文化の香り高い地域ですが、実は神田周辺は江戸時代まで武家地で、商店はひとつもありませんでした。駿河台という地名がありますが、ここはもともと駿河にいた旗本たちが住んだことに由来する土地です。

 歴史をさかのぼると今の学生街の源流といえるのは、1855(安政2)年に開設した江戸幕府の幼学所(神田小川町)。その後継組織である蕃書調所(ばんしょしらべしょ、神田錦町)があります。

明治期、老舗の書店が次々と創業

 この蕃書調所が、明治になり開成学校へと変遷。1877(明治10)年、神田和泉町にあった東京医学校と合わせて官立東京大学となります(のちに、文京区本郷に移転)。

 こうした学校ができたことで、神保町には学生相手の書店や活版印刷所がやってくるようになります。

 とはいえ、それはまだまだ小規模なものでした。その頃、書店といえば京橋や日陰町(現在の新橋あたり)のほうが盛んでした。

 そんな神保町に書店が増えたきっかけが、1877(明治10)年に創業した有斐閣(ゆうひかく)です。人文書の出版社として、2020年現在も白山通りから1本入ったところに建つ本社ビルが広く知られています。

東京メトロのホームの駅名標にも、積み重ねられた本が描かれている(画像:写真AC)



 その始まりは旧忍藩士・江草斧太郎(えぐさ おのたろう)が神田一ツ橋通町(現在の千代田区一ツ橋2丁目)で「有史閣」の名前で創業したものです。

 最初は旗本屋敷だった五軒長屋の一角から始まった書店。二間の間口で戸板の上に本を並べていましたが、徐々に店がはやると隣家も買い取って徐々に拡張。1879(明治12)年に出版業へ進出し、社名を有斐閣と改めました。

 これに続いて現れたのが、古書を扱う「中西屋書店」です。この書店を開いたのは「丸善」の創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)です。

 もともと医師だった早矢仕は、福沢諭吉の教えを受けて新しい知識を人々に広めるために、書店を始めます。

 この時に横浜の新浜町(現在の関内あたり)で開いた店の名前が「丸屋善八」。こちらは1870(明治3)年に日本橋へ進出します。

古書店と出版社、二足のわらじ

 商売は順調ですが、仕入れた洋書には売れ残りが出ます。それはもったいない、と考え出されたのが古本の販売でした。その店の名前が中西屋、別名・掃葉軒と名付けられたのです。1881(明治14)年のことでした。同年には、亀井忠一が「三省堂」を創業しています。

 こうして書店が盛んになりつつあった街に1886年にやってきたのが、明治大学の前身である明治法律学校。

 周囲に学校が増えると書店もさらに増えます。この頃は、1913(大正2)年に創業した「岩波書店」もそうであるように、古書店と出版社の二足のわらじの会社が多くを占めていました。

戦後、本を求める人が押し寄せた

 やがて、古書店・出版社・取次店が軒を連ねるようになった神保町。その歴史が途絶えなかった理由には、大戦の空襲で焼けなかったことが挙げられます。

太平洋戦争で甚大な被害を受けた東京。神保町は奇跡的に免れた(画像:東京都教育庁)



 太平洋戦争末期の空襲で周囲の神田三崎町や錦町はすっかり焼けてしまったのに、神保町は奇跡的に難を逃れました。

 そして終戦を迎えると、統制で流通量も少なくなっていた本を求めて焼け残った町へと人々が押し寄せます。

 今では信じられませんが、この時代は「今度、○○の本が売り出される」という情報が流れると、前日から書店の前に行列して本を買う人もいたと言われています。神保町に行けば本があると、押し寄せる人は絶えませんでした。

古書店や露店がずらっと並んだ風景

 そして、やってくるのは買う人ばかりではありません。日々の生活費を得ようと蔵書を手放す人たちがいたため、古書も豊富になっていきます。

人の手から人の手へ、神保町の古書店にはさまざまな本が並ぶ(画像:写真AC)



 靖国(やすくに)通り沿いには、従来の古書店だけでなく露店がずらっと並び、極めて安い価格で販売されるいわゆる「ゾッキ本」も売られていたといいます。

 この時代、歌声喫茶「ともしび」で人気だった曲を基に作られた流行歌『大学数え唄』にも、

「五つとせ いつも神田でたたき売り バイトするやつァ ○大生」……

という歌詞が登場するほど、当時の神保町の風景は象徴的なものだったようです。

 ちなみに古書というと初版本はなぜか価値を持ちますが、これは昭和40年代に「初版本ブーム」が起こり、古書にも骨董(こっとう)的な価値が認められてからのものです。

「世界一の古書店街」は今も健在

 そんなレトロな神保町ですが、バブル時代の地上げ、その後の再開発でのビル建設などを経てレトロな雰囲気は少しずつ失われつつあります。

 古書の流通も、インターネットが主流となり無店舗で商いをする店も増えてきました。

 しかし、いまだ多くの古書店が集まる神保町は古びていません。同じく古書店街だった、文京区・本郷の東大前や、新宿区・早稲田などが店舗数を減らしている中で、「世界一の古書店街」の底力には、やはり目を見張るものがあります。

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