85歳の男性が語った、半世紀前の体験
フリーライターをやりながら東京でタクシーのハンドルを握り、はや幾年。小さな空間で語られる乗客たちの問わず語りは、時に聞き手の想像を絶します。自慢話に嘆き節、ぼやき節、過去の告白、ささやかな幸せまで、まさに喜怒哀楽の人間模様。
今日はどんな舞台が待っているのか。運転席に乗り込み、さあ、発車オーライ。
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大田区・蒲田から横浜までの長距離客がいました。約30分の道すがら、多摩川べりの美しい夕焼けも妙に頭に残る話です。2012年のことです。
多くの場合、お客さんが自分の話をし始めるのに前後の脈絡はさほど関係ありません。横浜市内の北部エリアに住むというその男性(85歳)も、きっとおしゃべり好きなのでしょう、老齢に似合わぬ雄弁さで半世紀以上前の思い出を語り始めました。
家路を急ぐ列車で思わぬ“事件”発生
1956(昭和31)年。29歳のとき、男性はある会社の仙台工場に勤務していたといいます。その日も仕事を早めに切り上げ、友人とふたり、安いバ―でうまい酒を飲みました。
「うぃー、もう帰ろうかねぇ」
仙台市内にある社員寮に向かう東北本線仙台駅へ、21時発の普通列車に乗車。いつもの6両編成でした。
「ボーーーー、ボッポッポッ」
発車後、間もなく男性はトイレに行きたくなって席を立ちます。千鳥足で車内の通路を歩きました。そこから“事件”が起こります。何と、トイレと出入り口の戸を間違って開け、外に吸い込まれるようにスポンと車外へ転落してしまったのです。
気づけば線路脇の草地で気絶していた
これは琴曲演奏家の宮城道雄が、同じように転落し亡くなった3か月後のことです。
宮城氏が乗っていたのは東海道本線ですが、男性は仙台と岩切駅間の線路上。幼い頃に失明した宮城氏は、目が見えないため転落時に何かにつかまろうとして手を伸ばし、車輪に巻き込まれたと言われています。
一方の男性は酔っていたので何もするヒマもなく、それが幸いしたのでしょうか、命に別条は無し。列車は時速80km以上の速度でした。
「あの時、何の記憶もないんだ。友人にトイレに行ってくるからと言ったのは覚えているけどね」
そのまましばらく気絶していたという男性、フッと目が開くと、線路脇5mくらい先の草地に転がっているではありませんか。
直後に起きた「ふたつめのショック」
「何で俺はこんなところに寝ているんだ」
街の灯の明るい方に向かって、フラフラと歩きます。腰と肩と後頭部が少し痛かったものの、歩くのに支障はありません。
「駅はまだかなぁ」と暗夜の線路沿いを10分も歩くと、陸橋があって下には水が流れています。
慎重に足を一歩前に出す。だが枕木と枕木の間が意外と広い。今度は足を滑らせ、3mくらい下にまた落ちました。
「お、あーーぁ!」
ザブン!
「これがふたつめのショックです」と、いたずらな表情の男性。「それで、どうなったんです?」。私もつい話に引き込まれ、ハンドルを握りつつ話の続きをせかしていました。
病院へ……全治2か月の大けがだった
「おーーー、助けてくれ」
呼んでも叫んでも、ここには誰もいません。男性は助かりたくて必死に泳ぎました。ひどく冷たい水。やっと岸によじ登り、びしょぬれになりながらまた歩く。後で分かったのですが、男性が落ちた浄水場は、深い所だと5mもあるそうです。
酔いもすっかりさめてしまいとぼとぼ歩いていると、向こうから列車がゆっくり走って来るのです。男性は必死で手を振る。すると、シューッと蒸気をはいて止まってくれました。
「た、助けてください」
機関士は懐中電灯を照らしながら降りて来て、
「おー、あんたを捜していたんだ。指令室から指示があったぞ。下りの列車から落ちた人がいるらしいから見て来いと言われた。それでゆっくり走って来たんだ」
男性は助かった喜びでうれしくてうれしくて。それから国鉄が近くの病院へ運んでくれました。
診断の結果、脊髄(せきずい)損傷の骨が1か所、肩と腕が打撲で全治2か月と言われます。結局は1年の入院となりました。
一緒にいた友人はあのとき、何かが石にぶつかるような大きな音がしたといいます。いつまで待っても帰って来ないし、どうしたのかと思っていたら、向かいの席に座っていた老人が一言。
「あんたの連れ、やばくなってるかも知れんよ」
すぐに飛んで行くと、トイレにいません。車内は大騒ぎになっていたのです。
しかし、無事に生還できた男性には「みっつめのショック」が待っていたといいます。
最後に訪れた「みっつめのショック」
国鉄から2万円の見舞金が届けられたとき、その職員が申し訳なさそうにこう切り出しました。
「あのー、私ども損害をこうむったので罰金300万円(現在に換算して4000~5000万円)を請求することになりました。列車が遅れた時間で勘算してます」
「えー、やだよぉ。そんな大金ないですよ」
顔面蒼白(そうはく)になった男性。
「規則でして」
「み、見舞金を返すから、ば、罰金はチャラにしてくださいよぉ、助けてよ」
「私ども人形を使って列車も使い、実際の実験をしてみたんです。それでやっぱり、あなたの過失でした」
金額に泡を食った男性は、親戚の国鉄職員に土下座までして何とか助けてくれるよう懇願。すったもんだをへて、最後は「かわいそう」ということで不問に付してもらったのだと、男性は笑って話しました。
当時はそういった融通が利く時代だったのでしょう。それ以来、事件の起きた「9月29日」に男性は一切外出しないのです。男性にとって、この日は「地獄をのぞいた厄日」だからでしょう。
新聞にもデカデカと載った「奇跡の転落事故」。職場でもすっかり有名人になってしまったといいます。
豪快な笑みを残して降りて行った男性
男性はその後も同じ会社で勤め上げ、その勤勉さを買われて役員に昇進。その後も週一度は元気に出社をしているというのだから、人の運命などまったく分からないものです。
「せっかく生き延びたのだから、長生きするつもりだよ」。そう豪快に笑って、タクシーを降りて行った男性。
あれから8年近くがたった今も、あの豪傑のまま変わらず会社勤めをされているように思えてなりません。
※記事の内容は、乗客のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。