東京と南極を結んだ建築家「浅田孝」 生誕100年で振り返る偉大な功績とは
2021年6月18日
ライフ長らく人類が暮らすことは困難の地とされてきた南極大陸。そんな場所で使われる昭和基地をデザインしたのが「浅田孝」です。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
厳寒地・南極
6月も半ばを過ぎ、日本列島は日に日に暑さを増しています。近年、埼玉県熊谷市や群馬県館林市、岐阜県多治見市などが日本一暑い都市を競うなど、本来ならネガティブなイメージの“暑い”ことを逆手に取ったPRも珍しくなくなりました。
暑くなる北半球に対して、南半球はこれからが冬で、寒さもピークを迎えます。特に、厳寒地とし知られてきた南極大陸は長らく人類が暮らすことは困難の地とされてきました。
そんな南極にも人類は果敢に挑戦し、不自由ながらも生活を送れるようになってきています。
南極大陸の面積は、日本の約37倍にもあたる約1388万平方キロメートルもあります。「広大な大地を有効活用できないか?」と考えるのは人間の性かもしれません。
日本初の南極観測隊は1956年
南極大陸の有効活用を求めて、世界各国は競って南極に基地を開設。調査・研究を続けています。日本は1955(昭和30)年に南極地域観測に参加することを閣議決定。翌年に第1次南極観測隊が出発しました。

南極観測隊の任務は多岐にわたりますが、南極という未開の地で起きる問題を克服・解決することが最大の目的です。中でも1年間を南極大陸で暮らす隊員は、厳しい冬を乗り換えるために越冬隊と呼ばれます。つまり、南極が冬を迎える6月~8月が観測隊の正念場なのです。
2020年12月に日本を出発したのは第62次観測隊です。つまり、日本は62回もチームを南極に派遣しているわけですが、2020年から世界中でまん延している新型コロナウイルスは南極観測隊にも影響を及ぼしています。
南極では新型コロナウイルスの感染者は確認されていませんが、万が一にも感染者を出すことはできません。リスク低減のため、第62次観測隊は人数を大幅に減らして派遣されました。
62回も観測隊を送っていることもあり、厳しい南極生活を快適に暮らせるような工夫や知見も少しずつ蓄積されています。しかし、当初の観測隊はすべてを手探りでした。
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