お寺の密集度がすごい 台東区上野公園15~16丁目、いったいなぜ?

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お寺の密集度がすごい 台東区上野公園15~16丁目、いったいなぜ?

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多くの人でにぎわう上野恩賜公園の近くに、お寺が密集するエリアがあります。都会の真ん中にもかかわらずいったいなぜなのでしょうか。取材をすると意外な事実が浮かび上がってきました。

ほぼお寺だけで占められた約1万6000平方メートルのエリア

 東京国立博物館(台東区)のすぐ東側、同区上野公園15~16丁目にお寺が密集するエリアがあります。面積にしてなんと約1万6000平方メートル。いったいなぜでしょうか。

寺院の密集する、台東区上野公園15~16丁目のようす(2018年7月21日、ULM編集部撮影)



 同エリアにある寒松院(かんしょういん)住職の宮部亮侑(りょうゆう)さんによると現在、上野公園15~16丁目には計15の寺院があるそうです。

 これらはすべて東京国立博物館の北北西にある寛永寺(同区上野桜木)の子院(しいん)にあたるとのこと。子院とは本寺(ほんじ)に属する寺院のことで、この場合の本寺が寛永寺です。

「江戸時代に、寛永寺の子院はもともと36あったのですが、その後、後継者問題などが原因となり19まで減ってしまいました。そのうちの15の子院が、このエリアに集まってきたのです。エリア南側にある10の寺は、比較的古い時期からこの地にあるそうですが、私が住職を務める寒松院など残りの5つは、遅れて移ってきました。移転理由は寺院ごとに異なるようです。残念ながら、周辺寺院に関連する資料は第二次世界大戦で焼失してしまったため、それぞれの歴史の詳細はわかりません」(宮部さん)

 宮部さんが住職を務める寒松院も、もともとは寛永寺の裏手にありましたが、第二次大戦による戦火で建物が焼失したため、戦後に現在の場所に移ってきたのだそうです。

上野公園15丁目の位置(2018年7月21日、ULM編集部撮影)

明治新政府による土地没収がきっかけ

 ここで、本寺である寛永寺の歴史について振り返ってみましょう。寛永寺が建てられたのは1625(寛永2)年で、寛永年間に建立されたことから、その名が付けられました。宗派は天台宗で、組織を立ち上げたのは、江戸幕府第3代将軍・徳川家光。山号(寺院名に付ける称号)は、東の比叡山を意味する「東叡山」で、京都と滋賀にまたがる比叡山にある延暦寺が天台宗の総本山であるのに対し、寛永寺は関東の総本山にあたります。

エリア内にある見明院(2018年7月21日、ULM編集部撮影)

 江戸時代の寛永寺は幕府の保護の下、隆盛を極めました。その土地は、現在の上野恩賜公園のほぼ全域をカバーし、最盛期の広さは約30万5000坪(最盛期)に及んだといわれています。ちなみに30万5000坪という広さは、東京ドームの面積21.5個分(約100万8300平方メートル)に相当します。

「もともとあった36の子院は、その土地のなかに散らばるような形で存在していました。当然、各寺の土地も現在と比較にならないぐらい広かったのです」(宮部さん)。

 しかし明治維新期の1868(慶応4)年、新政府軍と旧幕府軍との間で行われた上野戦争によって、その光景は大きく変わることになりました。戦に敗れた旧幕府軍の彰義隊(しょうぎたい)が寛永寺を根城として戦いを行ったため、寛永寺はその建物の多くを焼失することになったのです。

「寛永寺は上野戦争が終わった後、旧幕府軍をかくまったとみなされ、明治新政府から土地の多くを没収されてしまいました。その結果、江戸時代の10分の1程度まで縮小してしまったのです」(宮部さん)

エリア内にある寒松院(2018年7月21日、ULM編集部撮影)

 没収された土地の大部分はその後、上野恩賜公園へとその姿を変えました。その後さまざまな複雑な経緯を経て、15の寺が上野公園15~16丁目に集まり、現在のような状況になったのでした。

「寛永寺とその子院は、歴史に翻ろうされ続けたといえるでしょう」(宮部さん)

エリア内にある林光院(2018年7月21日、ULM編集部撮影)

 ちなみに、戦争や自然災害によって、現在の東京都内で寺院が移転した例はいくつもあるそうで、宮部さんは「興味を持ったら、図書館で調べるのも面白いですよ」と話しています。

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