延伸計画も決定 赤字経営を跳ね返した「多摩モノレール」奮闘の歴史とは
開通は12年後を予定 東京都内の市で唯一鉄道のなかった武蔵村山市に2020年、ついに鉄道がやってくることが決まり、話題となっています。 現在、隣の東大和市の上北台駅が終点となっている多摩都市モノレール線(多摩モノレール)が、瑞穂町の八高線・箱根ケ崎駅まで延伸する計画が本格的に動き出しているのです。 住宅街を走る多摩モノレール(画像:写真AC) 2020年初頭に発表された東京都の予算案では、調査費などに約1億円を計上。計画では、おおむね12年後の開通を目指しています。既に、延伸が予定される区間での新青梅街道の道路拡幅工事も進んでおり、期待は膨らんでいます。 過去に何度も持ち上がった鉄道計画 1970(昭和45)年に誕生した武蔵村山市ですが、郊外のベッドタウンとして人口が増加してきたにもかかわらず、鉄道も国道もない市としてこれまで知られていました。 多摩都市モノレールの路線図(画像:多摩市) 鉄道に乗ろうとすれば、バスで周囲の市にある上北台駅、桜街道駅、玉川上水駅、武蔵砂川駅などにアクセスする必要があったのです。 ただ鉄道がない代わりにバス路線がしっかりと整備されており、「イオンモールむさし村山」(武蔵村山市榎)のにぎわいからもわかるように、車さえあればまったく不便な場所ではありません。 実はこれまでも、鉄道が武蔵村山市を走る計画は何度もありました。明治末期には、八王子から群馬県の大間々町(おおまままち。現在のみどり市)をつなぐ阪東鉄道が計画されるも、頓挫。 その後、大正時代には村山軽便鉄道が吉祥寺から、田無と東村山を通って箱根ヶ崎までの路線を計画しますが、こちらも中断。ちなみに一部は開通し、現在の西武新宿線と西武園線の一部となっています。 南側のふたつの延伸計画も南側のふたつの延伸計画も その後、1960年代には吉祥寺から箱根ヶ崎、青梅を通り秩父へ至る武州鉄道という路線が計画されますが、これは出資者たちが鉄道免許を受けるため、政治家に賄賂を送る事件を起こして立ち消えになりました。 こうして武蔵村山市で鉄道があったのは唯一、1919(大正8)年から多摩湖と狭山湖を建設する際に工事用の鉄道が敷設されたときだけでした。 さて武蔵村山市への延伸が決まった多摩モノレールですが、南側にも延伸の構想はあります。現在の南側の終点である多摩センター駅から町田駅までと、八王子駅までのふたつの路線を延伸する計画です。 多摩都市モノレールの延伸計画(画像:武蔵村山市) どちらも鉄道空白地帯になってる地域を通るもので、それぞれの自治体では早期の実現が求められています。 なお八王子市では多摩モノレールの延伸計画が進まないことから、2016年に市で独自に次世代型路面電車(LRT)を整備する計画も立てましたが、丘陵地帯の続く土地では技術的に困難として断念された経緯もあります。 これらの計画が実現すれば、多摩モノレールの沿線は新たなベッドタウンとして、開発されることが期待されます。 近年、1日平均乗車人員が急増近年、1日平均乗車人員が急増 そんな多摩モノレールは2019年3月に開業以来初めて、ダイヤの全面改正を行ったことがニュースになりました。 現在の営業路線全線が開通したのは、2000(平成12)年。そこから19年たって初めてダイヤの見直しが行われた背景には、乗車人員の増加があります。 駅別乗降人員(1日平均)(画像:多摩都市モノレール) 2000年には7万9815人だった1日平均乗車人員は、2017年には14万2498人と急増。今では沿線住民の欠かせない足となっています。 これは面目躍如と言ってよいでしょう。なにしろ、開業当初の多摩モノレールは東京都の財政を悪化させると批判されてきたのです。 1998年に立川北~上北台が開通 多摩モノレールは1970年代に、ベッドタウンとして人口が急増していた多摩地域の公共交通として計画され、東京都は1981(昭和56)年に「多摩地域都市モノレール等基本計画調査」の報告書を公表。鉄道空白地帯にモノレールを整備する計画を示しています。 この時の報告書では箱根ヶ崎より西には羽村を経由して、秋留を経由し八王子へ。さらに多摩センターから若葉台を経由して是政へなど、環状路線を含む壮大な計画が立てられました。 立川駅前の様子。上を通るのが多摩モノレール(画像:(C)Google) これを受けて1986年には第三セクターによる多摩都市モノレール株式会社が設立されます。工事は1990年に始まり、1998年に立川北~上北台が。2000年に多摩センター~立川北が開通しました。 2008年度に初めて黒字を達成2008年度に初めて黒字を達成 ところが、開通した多摩モノレールには非難が寄せられます。 乗車人数が予想を下回り、赤字経営となったからです。1998年の開業当初、乗車人数は1日あたり4万3000人と見込まれていました。ところが、実際には2万人程度と乗客は半分に満たなかったのです。 これに加えて、開業までの土地の取得費用や建設費などの借入金の支払いが大きくのしかかっていました。2003年には債務超過に。 しかし、次第に経営状態は改善していきます。2008(平成20)年度に、初めて黒字を達成。2015年には、純利益が10億円を突破します。 利益が増加した理由は、利用者の増加にほかなりません。 多摩モノレール(画像:写真AC) 開業当初には進んでいなかった沿線開発が10年あまりかけて実施され、大型商業施設なども増加。また、バスに対して定時運行することの信頼感から通勤・通学ルートの切り替えも進み、乗客は定着していったのです。 現在でも、多摩地域を南北に横断し23区とは違う東京の姿を楽しめる多摩モノレール。延伸によって、またその地域の人の流れを変えていくことになるのでしょうか。
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