港区に漂うパリのエスプリ 日本唯一の正統派アールデコ館「旧朝香宮邸」をご存じですか

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港区に漂うパリのエスプリ 日本唯一の正統派アールデコ館「旧朝香宮邸」をご存じですか

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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旧朝香宮邸を転用した建物として知られる港区「東京都庭園美術館」。同美術館は国内で唯一アールデコのエスプリを今に伝える建造物です。詳細を、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。

目黒駅から徒歩7分のモダン建築

 JR目黒駅から目黒通りを東へ徒歩約7分。坂を上りきった左側にある「東京都庭園美術館」(港区白金台)は、かつて日本の皇族だった朝香宮(あさかのみや)家の初代当主・朝香宮鳩彦王(やすひこおう。1887~1981年)の私邸を転用した建物です。

 アイボリーに塗装されたシンプルな外観からは想像できないほど、館内にはめくるめくアールデコの世界が広がる旧朝香宮邸は、国内で唯一パリ・アールデコのエスプリ(機知)を今に伝える建造物といえるでしょう。

 今回は、孤高の昭和モダン建築、旧朝香宮邸にせまります。

アールデコとは何か

 アールデコという言葉を耳にされた人は多いと思いますが、これは1925(大正14)年にパリで開催された万博「現代装飾工芸芸術博覧会(アールデコ博覧会)」の仏語原題から、のちに命名された言葉です。

 その展覧会名が示すとおり、装飾や工芸に特化した万博で、日用品や装飾品はもちろん、内装インテリアから建築まで展示された万博でした。

 その出品条件は“従来にない新しい造形”。この条件が課せられたおかげで、フランスをはじめとした各国のデザイナーがしのぎを削り、それまでにない新しいデザインが一堂に会しました。

 アールデコ博に並んだ作品のルーツには、18世紀末の頃から始まった、数々の新しい芸術運動があげられます。

単色に塗られ、ほとんど装飾がない旧朝香宮邸の外観(画像:黒沢永紀)



 まず、世紀末にイギリスで誕生したアール・ヌーヴォーは、それまでの古典的な装飾を捨て、自由に有機的な表現をする造形でした。

 そして20世紀に入り、大量生産と大量消費が始まり、自動車や電信・電話などが普及するなど、スピード感のある社会へ変貌すると、アール・ヌーヴォーとは対照的に、規則的で直線的な表現が生まれます。

アール・ヌーヴォーとモダニズムの融合

 やがて直線的な表現は純粋に幾何学的な要素だけとなり、最終的に一切の装飾を取り除いた造形へとたどり着きました。これが20世紀の中盤、世界を席巻したモダニズムです。

 アールデコは、そんな時代を背景に、アール・ヌーヴォーとモダニズムの“おいしいとこどり”をしたような造形でした。

 さらに、ラジオや雑誌の普及によって、世界の未知なる地域が広く紹介され、従来のヨーロッパにはなかった各国の造形要素が取り入れられたのも大きな特徴です。

 特に1922(大正11)年のツタンカーメン墓の発見は世界に衝撃を与え、アールデコにもエジプトの造形感覚が大いに反映されています。

 加えて、ギリシャ以来の古典的な装飾要素も見境なく取り込み、もはや字面だけだと、ただのごった煮のようにすら思えますが、単なる折衷ではなく、新旧と世界各地の造形をミックスし、さらに“従来にない新しい造形”を生み出したのがアールデコでした。

エンパイア・ステート・ビルも影響を受けた

 ちなみに日本もアールデコ博に参加していますが、“新しい造形”を国内各地の伝統工房に依頼するも、でき上がってきたのは従来と変わりばえしないものばかり。

 結局、明治時代には受けがよかったものの、とうに飽きられていた純和風の工芸品を展示せざるを得ませんでした。

 日本館のスペースはもともとアメリカ館の建設予定地だったようですが、新しい造形を提出できないという、アメリカにしてはいささか謙虚な理由で辞退しています。

 しかし視察に来ていたアメリカの取材班は、アールデコ博からそのエッセンスをしっかりと持ち帰り、大戦景気に物を言わせて建設したのが、みなさんもご存じのエンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビルをはじめとした、ゴージャスなアールデコの摩天楼です。

 かたや新しいものを提出できなかった日本は、アメリカのように新しいものを持ち帰ることも、あまりできませんでした。

仏デザイナーと内匠寮のコラボが生み出した館

 日本にとっては「あだ花」ともいえるようなアールデコ博でしたが、会期中に留学していた朝香宮鳩彦王は、妃殿下である明治天皇の第八皇女・允子(のぶこ)様とともにアールデコ博を訪れ、その造形美にすっかり魅了されてしまいました。

 おりしも国有地だった東京白金の敷地が朝香宮家に下賜(かし。高貴の人が身分の低い人に物を与えること)されることとなり、宮さまはこのアールデコ・スタイルをふんだんに取り入れた邸宅の建設を思い立ちます。

 実質の設計は、皇室関連の建物を手がける宮内省内匠寮(くないしょう たくみりょう)が担当しましたが、内装に関しては、殿下の意向によってフランスのデザイナー、アンリ・ラパンに依頼しました。

 アンリ・ラパン(1873~1939年)は、画家あがりのデザイナーで、装飾美術家協会の副会長としてアールデコ博の開催に尽力した人物でもあることから、おそらく現地で面識があったのだと思います。

 ラパンは、自ら内装の設計を手がけると同時に、アールデコ博に参加していた知り合いの工芸師たちにも声をかけ、珠玉のアールデコ・インテリアを完成させました。

 船で送られて来たパリ製のパーツの中には、壊れていたり、サイズが合わなかったりしたものもあり、最終調整は内匠寮が行ったといいます。

 また、ラパンが担当したのは主要な7室で、それ以外は内装デザインも内匠寮が手掛けました。そんな朝香宮邸は、いわばラパンと内匠寮の華麗なるコラボ作品といえるでしょう。

 殿下は晩年、朝香宮邸の設計者は誰かとの問いに、はっきり自分ですとお答えになっているので、おおもとのアイデアは、すべて殿下と、芸術に造形の深かった妃殿下の発案だったのかもしれません。

曇りガラスの扉、香水塔、ラジエーターカバーが出迎える世界

 それでは実際に邸内を見ていきたいと思います。

 正面玄関を入ると、まず出迎えてくれるのが、4体の女性像の浮き彫りが並ぶ曇りガラスの扉。

ルネ・ラリックのレリーフが美しい正面玄関のガラス扉(画像:黒沢永紀)



 作者のルネ・ラリック(1860~1945)は、アール・ヌーヴォーの時代からガラス工芸の第一線で活躍した工芸師で、時代に合わせて直線的な造形になっていった過渡期の作家です。

 このガラス細工も、直線的に伸びるドレスなどは、エジプトの神殿彫刻にも通じるアールデコ要素の強い処理ですが、女性像の周囲にちりばめられた無数の羽は、アール・ヌーヴォーの流れをくむものといえるでしょう。

 ラリックの扉の奥は大広間で、外光があまり入らない造りは、その次に訪れる部屋のインパクトをより増幅させる配慮でしょうか。

 大広間に入って真っ先に目に飛び込んでくるのが、左に隣接する次室の大きくて真っ白なオブジェです。

 ゴブレット・グラスの上にロールケーキが積み上がったようなデザインのこのオブジェは、香水塔とよばれるもので、ラパンがデザインし、アールデコ博にも出展していたセーヴル製陶所が製作しました。

 元々は噴水器だったようですが、ロールケーキ状の部分に香水を振りかけ、内部照明の熱で香りをたてたことから、香水塔とよばれています。

 規則的なドレープとロールケーキのような巻文様は、まさにアールデコの定番ともいえるデザイン。鮮やかな朱色に着色された人造石の壁と黒漆の柱、そして白しっくいが塗られた天井が織りなす色のハーモニーも含め、邸内でもっともアールデコらしい空間といえます。

 次室の隣が、部屋としては最も豪華な大客室。庭に面した壁を掃き出し窓にして、外光がふんだんに入るように施工し、3面はやや赤みがかった塗装のベニヤ材で囲まれています。

 4カ所の扉にはめ込まれた、鈍く光るアールデコのフロストガラスの美しさには、目まいすら感じることでしょう。また、天井からさがる『ブカレスト』と命名されたふたつのシャンデリアは、前出のラリックによるもの。

 大理石製のマントルピースに施された鋳鉄の帯や4基置かれたラジエーターのカバーなど、細部にいたるまで、珠玉のアールデコ・デザインがちりばめられています。

日本の匠がアールデコに挑んだ軌跡が随所に

 大客室を挟んで、次室の反対に位置する部屋が大食堂です。

 壁面を広範囲にわたって覆う巨大な植物のレリーフは、やや古典的なモチーフながら、メタリックな仕上がりがアールデコを演出します。そして天井からさがる果物をモチーフにしたシャンデリア『パイナップルとザクロ』もラリックの手によるもの。

 また、ラジエーターのカバーには魚介のモチーフがあしらわれ、食堂感を盛り上げます。

 大広間へ戻って大客室と反対側には幅の広い表階段があり、そこから2階へと進みます。

 階段の横に施行された手すりの装飾は内匠寮のデザインによるものですが、シンプルながら、秀逸なアールデコ作品といえるでしょう。前出のラジエーターのカバーを含め、鋳鉄の部分はそのほとんどを内匠寮が設計しました。

宮内省内匠寮の設計による大階段の手すりもまた素晴らしい(画像:黒沢永紀)



 そして2階は書斎と殿下の居間以外、全て内匠寮が手掛けたもので、ラパンのような派手さはないものの、日本の匠がアールデコに挑んだ、秀逸なデザインが散見します。

 例えば、2階廊下の随所に置かれた暖房器具を覆うラジエーターのカバーには、青海波の連続模様が採用されています。

 和柄文様の中でも特に割付文様とよばれる反復パターンの和文様は、アールデコに取り込まれたデザインソースのひとつでした。自然を幾何学的に構成する和柄文様は、アールデコの造形にうってつけだったのです。

 もし、アールデコ博への日本の出品作品が、鉄やガラスなどを使って、和柄文様をあしらった工芸品だったとすれば、世界を魅了する新しい造形になっていたかもしれません。

人間による欲望解放としてのアールデコ

 国内でここまでフランスのアールデコを継承する施設は、横浜の氷川丸以外に、あまり思い浮かびません。ひとえに朝香宮家のありあまる財力のなせる技とはいえ、フランス譲りのアールデコを国内で見ることができるのはうれしい限りです。

 アールデコは、そのあまりの先進性と特異性ゆえに、やがて世界がモダニズム一色になると、装飾が過ぎる悪趣味な過去の思い出として、歴史に埋もれていきました。

 しかし、モダニズムに行き詰まりの兆しが見え始めた1960年代になって、再びアールデコは脚光を浴びることになります。

 飾ることは、人間が本来持つささやかな欲望だと思います。ある意味禁欲的ともいえる無機質なモダニズムにまい進していた1920年代、アールデコは人間の本来の欲望を解き放とうとした、ささやかな抵抗だったのかもしれません。

 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)による皇室解体によって朝香宮家は邸宅を維持できなくなり、国が管理することになります。その後、吉田茂首相の住まいとなり、昭和30年代からは白金迎賓館として、赤坂の迎賓館が開館するまで、数々の社交会が開かれました。

 そして1984(昭和59)年に東京都庭園美術館となって今日にいたっていますが、美術展示のない時も、館内の見学は可能です。パリ・アールデコのエスプリを今に伝える旧朝香宮邸を、ご覧になってみるのはいかがでしょうか。

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