【実録 東京人vs関西人 2】誇り高き「上方」が政治も経済も東京に屈服した日

  • 未分類
【実録 東京人vs関西人 2】誇り高き「上方」が政治も経済も東京に屈服した日

\ この記事を書いた人 /

松田久一のプロフィール画像

松田久一

ジェイ・エム・アール生活総合研究所代表取締役社長

ライターページへ

江戸・東京と、関西・関西人との結びつきを考える、ジェイ・エム・アール生活総合研究所社長の松田久一さんの連載(全4回)。2回目は、政治や経済の中心が関西から東京へと移り変わった歴史を振り返ります。

大阪との役割分担で成長した江戸システム

 兵庫県出身の筆者(松田久一。ジェイ・エム・アール生活総合研究所代表取締役社長)が江戸・東京と関西の結びつきについて考える4回続きの連載。第2回となる本稿では、政治や経済の中心が関西から東京へと移り変わった歴史をたどっていきたいと思います。

※ ※ ※

 江戸時代の江戸と「上方」(現在の関西地域)との関係で、忘れてはならないのは経済的な結びつきです。

江戸・日本橋周辺を描いた浮世絵。大勢の人が行き交っていた様子が分かる(画像:国立国会図書館)



 江戸は100万人都市でした。当時、世界最大と推定されています。人口構成は武士と町人が半々です。コメなどの生産はしません。従って、各藩の農民は年貢を納めて藩主に安堵(あんど)してもらい、藩主は年貢米を家臣に配分し、家臣は藩主に忠誠を誓う土地にもとづく封建制度をとっていました。

 実際は、年貢米を大阪で売って、小判などの対価を得て、藩は貨幣で受け取り、配分していたようです。

 米の値段で収入が変わりますから「米本位制」でした。大阪で売った米の対価は、藩に送金すると同時に、江戸の藩邸にも送金されました。江戸の武士はこうして得た貨幣で、米などの食料から刀などの商品まで幅広く購入していました。

 銀座は、両替商である金融機能の名残の地名です。お金は電信為替のように、大阪から江戸に飛脚によって数日内で届けられたようです。大阪で両替商に振り込んだお金を書面確認で江戸の両替商で受け取れました。

関西から東京へ渡ったさまざまな「のれん」

 越後屋(現在の三越伊勢丹)は、この役割も担っていました。この越後屋の明治以降の多角化によって、財閥化し、三井両替商が日本橋の三井銀行に引き継がれていきます。実質的な創業者・三井高利(みつい たかとし)は三重の出身です。越後屋の創業の地が、「江戸本町一丁目」、現在、再開発が進められている中央区日本橋本町1丁目です。日本橋の国道1号の起点付近です。

東京と関西・大阪。政治も経済も、今や中心地は東京だが……(画像:写真AC)



 全国から集められた米などの物産は、海路で廻船(かいせん、港から港へ旅客や物資を運んで回る船)を使って運ばれました。現在の日本橋あたりにたくさんの船着き場と問屋の倉庫がありました。

 江戸の商人・紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)が、ミカンが豊富な上方から安く仕入れ、品不足の江戸へ海が荒れているにも関わらず届けて、大もうけしたという逸話はここから生まれました。現代金融では「裁定取引(アービトラージ)」と呼ばれています。

 全国の農業・漁業の農民が米など物資を諸藩に年貢として収め、諸藩から大阪商人が対価を払って買い集めて、市場取引をし、対価を得て、大消費地である江戸に物資を廻船で送る。江戸では問屋が主体になって、その物資を売りさばいていました。

 現在の神戸の灘酒は、江戸で喜ばれ銘酒と称賛されました。上方から江戸へ「下る」商品でした。現代で言うところのブランドが生まれました。

 神戸、大阪、京都などのさまざまな商品が「下り」、後にさまざまなのれん=ブランドを確立しました。

 徳川とともに下ったのが3大江戸そばのひとつ「虎ノ門大坂屋砂場」(本店・港区虎ノ門)です。

 明治になり、御所遷都(せんと)とともに下ったのが、羊羹(ようかん)で知られ、天皇家御用達のひとつの「虎屋」(港区赤坂)です。京都では「お金持ちのお店(たな)がついていかはったや」と半ばやっかみます。

江戸システムの破壊による近代化

 紀元前30年、中国・秦の第31代王政が周辺地域出身の劣等感から権威づけのために皇帝、すなわち、始皇帝と名乗り、華夷(カイ、文明の地と野蛮未開の地のこと)秩序による支配を広げ、周辺地域を統一しました。

 19世紀のナポレオン3世も、自らの権威づけのために、万国博覧会や品評会などのランキング機会を与え、入賞商品がブランド化していきました。ボルドーやブルゴーニュなどのワインのシャトーブランド、馬具のエルメス、カルティエなどが育ちました。

 辺境だった東京人が京都にあこがれる心理と似ています。劣等感から生まれるあこがれが、ブランドを生む心理のようです。逆に、江戸で売れない商品は「下らない」ものとされました。これが「下らない」(つまらない、の意味)の語源です。

1964(昭和39)年の東京オリンピック時、「とらや」の店先を走る聖火ランナーの様子(画像:虎屋ウェブサイト)



 このような経済システムは、江戸経済の基幹であり、江戸と大阪は相互補完の関係によって成立していました。そして、江戸も大阪もともに経済的に豊かになることによって、それぞれが特徴的な生活文化を形成していきます。

 江戸時代の東京と大阪の社会的な役割は、東京が政治を担い、大阪が経済という分担ができていました。そして、京都では天皇が政治的な権威を象徴していました。お互いがそれぞれの違いを認識し、役割分担して、相互利益を得る異質性を生かしたシステムでした。

 しかし、このシステムは欧米列強の発展には及びませんでした。

 薩長(さっちょう)土肥などの江戸時代に辺境だった諸藩の明治政府は、こうした分散的な役割分担を破壊し、より集権的なシステムへと統合しました。大阪だけでなく、関西が東京の後塵を拝するようになるのは「上からの」構造転換のためです。

東京一極集中による格差拡大

 東京・霞が関による官僚の育成と政治、天皇の東京への遷移による権威集中。そして、殖産工業化による産業資本主導の経済システムの構築も、すべて東京に集中させました。

 集権化によって近代化、市場経済化、政治の民主化、社会的な自由化のスピードは速められました。

現在、政治的権力を掌握する東京・国会議事堂(画像:写真AC)



 戦後、東京への一極集中化はより加速しました。1990(平成2)年頃のバブル経済崩壊直前には、東京の地価だけで国土が20倍もあるアメリカ全土を買えると言われたほど、富は東京に集中しました。

 新幹線や飛行機などの発達も、決定的な影響を与えました。結果として、東京と大阪の格差は広がり、関西地域として広域化しても対抗できるものではなくなったのです。

関連記事