約500haの埋め立て地をめぐる争い
7番目の副都心として開発された13号埋め立て地、いわゆるお台場の南には中央防波堤(中防)と呼ばれる埋め立て地があります。
面積が約500haにもおよぶ広大な中防は、長らくどの区にも属さない、帰属未定地でした。
歴史的な経緯から、中防は多くの区が帰属を主張してきました。最終的に、中防の帰属は大田区と江東区の2区に絞られましたが、そこから帰属が決まるまでには長い歳月がかかりました。
約40年にわたる紛争は2019年に決着
中防の帰属が決まらなかった理由は、大田区・江東区ともに主張を譲らず、話し合いは平行線をたどったからです。いつまでたっても決着がつかない中防の帰属は、2017年に東京都紛争処理委員の裁定に委ねられました。
東京都自治紛争処理委員が出した結論は、約500haのうち大田区が13.8%、江東区が86.2%の割合で分割するという案でした。
しかし、これで一件落着とはいかず、中防の帰属争いは司法に舞台を移します。2019年9月、東京地裁は大田区20.7%、江東区79.3%という案を提示。大田区・江東区の両区は、この案を受け入れて中防の領土争いは終結します。
埋め立て地の帰属が決まったことで、大田区・江東区ともに区域が広がりました。その土地を開発するべく、行政が手始めにやらなければならないことが、住所を決定することです。
新住所、大田区は「令和島」
中防は無人の埋め立て地ですから、そこに住民はいません。よって、住民の意向を区が聞くことはできません。そこで大田区も江東区も、区民から新住所を公募することにしました。
公募の結果を踏まえ、大田区側は「令和島」という住所に決定。
説明するまでもなく、令和島の「令和」は新元号が由来です。そして、2020年6月1日(月)から令和島という新たな住居表示が実施されています。令和島は西側の区域が1丁目、東側の区域が2丁目になります。
大田区域の東京湾では江戸時代からのりの養殖が盛んでしたが、戦前期から埋め立て事業が始められました。
その埋め立てで誕生したのが、ボートレース場で有名な平和島や東京モノレールの駅でもおなじみになっている「昭和島」です。
令和島は、それらに続く大田区域にある東京湾の島になるわけですが、今後の整備計画の詳細はこれから詰めていくことになります。
一方の江東区は「海の森」に
江東区側は、これまで慣れ親しんでいた「海の森」に決めました。
同地には、東京都が海の森公園を整備しており、その公園名が町名にそのまま引き継がれた格好です。
海の森公園は東京都や国際森林協会といった団体などが、たびたび植樹イベントを実施してきました。当初、茫洋(ぼうよう)としていた海の森は、植樹によって緑をたたえるようになりました。
そして、公園として姿を少しずつ形成し、2017年から正式に海の森公園として開園しました。
植樹の成果で公園としての体裁を整えた海の森公園には野鳥などが飛来し、営巣する様子も観察されるようになっています。
海の森という新しい住居表示は、同じく2020年の6月25日(木)から実施されます。海の森は1丁目から3丁目まであり、西側の区域が1丁目、中央の区域が2丁目、東側の区域が3丁目です。
明治から始まった東京湾の埋め立て事業
東京湾の埋め立て事業は明治期から着手されており、時代とともに湾岸沿いは大きく地形を変えました。
特に江東区はその変化が大きく、昭和30年代の江東区と現在の江東区を比較すると、同じ区とは思えないほどの変貌を遂げています。
いまや多くの住宅が建ち、オフィスや商店などでにぎわう夢の島・新木場・有明なども、昭和30年代には存在していません。
東京臨海部の繁栄を期待して
埋め立て事業は江東区の飛躍につながったターニングポイントでもありますが、反面で負の歴史もたくさん残しました。いずれにしても、埋め立て事業とともに江東区が歴史を刻んできたことは間違いありません。
お台場が20~30年の歳月をかけて成長してきたように、中防も長い歳月をかけて臨海副都心の一翼を担う街へと成長していくことが期待されています。