東京のど真ん中に「高層ビルと一体化した神社」がある歴史的背景

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東京のど真ん中に「高層ビルと一体化した神社」がある歴史的背景

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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ビル街・虎ノ門にひっそりとたたずむ金刀比羅宮。いったいなぜこのような場所にあるのでしょうか。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

「虎ノ門」は元々、江戸城の外堀にあった

 私は神社の本を書いちゃうくらい神社好きではあるのだけど、御利益とか御朱印にはあまり興味はありません。

 私が心引かれるのは、

・なぜそこにその神社はあるのだろう
・どういういわれでここに建てられたのだろう
・どういう変遷を経てきたのだろう

ということです。神社自身、あるいはその神社を祭った人たちの物語といっていいでしょう。

「なぜここに神社が?」と強く思ったのが、虎ノ門にある金刀比羅宮(ことひらぐう。港区虎ノ門1)です。

ビルの裏にある銅製鳥居と社殿。鳥居を飾る青龍・玄武・朱雀・白虎は必見(画像:荻窪圭)



 虎ノ門といえば都会のど真ん中。今、再開発で虎ノ門ヒルズが作られてます。虎ノ門の交差点には文部科学省がありますし、その周りには霞が関ビルディング、経済産業省、財務省などなど官庁が並んでます。

 そもそも虎ノ門は江戸城外堀に置かれた門の名前で、江戸城への入り口のひとつ。その真ん前に金刀比羅宮。しかも高層ビルと一体化してます。

江戸時代の絵図を調べたらすぐ判明

 さらに金刀比羅宮というところにも「あれ?」と思うわけです。金刀比羅宮というのは、いわゆる「こんぴらさん」。

 琴平神社や金比羅神社も同じで、大元は四国の香川県琴平町にある金刀比羅宮で、金刀比羅宮のサイトによると、往古は「琴平神社」だったが、のちに神仏習合の影響で「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」となり、金刀比羅宮になったそうです。

 瀬戸内海を望む山の中腹にあり、海の神様として親しまれてきました。四国の海の神様が虎ノ門の、江戸城のすぐ外側にあるわけです。なぜだろう、と思いません?

 江戸時代の絵図を調べてみるとすぐにわかりました。

 今、虎ノ門の金刀比羅宮がある一帯は、丸亀藩(今の香川県丸亀市)藩主 京極氏の上屋敷があったのです。

江戸切絵図より。京極氏の屋敷に隣接して金刀比羅宮がある(画像:荻窪圭)

 金刀比羅宮は丸亀藩の内にあり、京極氏は藩邸に金刀比羅宮の分霊を勧請(かんじょう。神仏の分霊を他の場所に移し祭ること)。1679(延宝7)年、藩邸が虎ノ門へ移るにともない、金刀比羅宮も現在地へ遷座しました。

ヒントは丸亀藩主の江戸屋敷にあり

 つまり、丸亀藩主が地元の神様を江戸屋敷内に置いた邸内社だったのですね。

 その後、江戸市民が金刀比羅宮への参拝を求め、毎月10日に限り、邸内にある金刀比羅宮への参拝を許可しました。江戸時代には庶民の間にも金毘羅信仰が広がり、江戸のこんぴらさんということで人気だったのでしょう。

 邸内社だったにもかかわらず、江戸末期の「江戸切絵図」にはしっかりと描かれてます。

国道一号線越しに見た金比羅宮。ビルの一角が参道になっている(画像:荻窪圭)



 明治になって藩が解体されて藩邸がなくなっても金刀比羅宮だけはその場所に残り、周辺がどんどん開発されて官庁街・ビジネス街になりました。

 その立地の良さから2004(平成16)年には、その敷地に26階建ての「虎ノ門琴平タワー」が完成。金刀比羅宮はそのビルと一体化し、しっかり生き残ったわけです。

道路脇には江戸城の櫓台跡も

 国道一号沿いにある鳥居を抜けると、高層ビルの裏に江戸時代(1821〈文政4〉年)に建てられた銅製鳥居があり、その奥に立派な拝殿や摂社があって、日本の神社らしさもしっかり残っているのはいささか異時空に迷い込んだ感があってたまりません。

 この裏手あたりには文科省中庭に公開されている江戸城の外堀や、道路脇にひっそり残る江戸城の櫓台(やぐらだい)跡もあり、江戸の名残は金刀比羅宮だけではありません。

旧文部省庁舎(右手のレンガの建物)の裏に江戸城外堀が露出していて見学できる(画像:荻窪圭)

 虎ノ門は現在虎ノ門ヒルズをはじめとする再開発の真っ最中で、高層ビル街化がより進もうとしています。

 1968(昭和43)年完成の日本初の超高層ビル「霞が関ビル」や1932(昭和7)年完工の「旧文部省庁舎」(今の文科省)といった昭和の建築も合わせると、江戸から昭和、令和までいっぺんに楽しめる、東京ならではの時空混在散歩がより楽しめそうです。

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