ええ、ここも東京なの?
東京といっても、23区のような大都会ばかりではありません。奥多摩や高尾山に行くと東京の自然に驚かされますし、また地図を見ると妙なところが東京になっていることにも気づきます。
東京都と神奈川県の県境は、まさに複雑怪奇そのものです。東京に住む大半の人は、多摩川を境にして河口から北側が東京都で、南側が神奈川県だと思っているでしょう。
ところが、地図を見るとそうとは限らないのです。
多摩川を越える大師橋(川崎市)よりも少し上流、「大師の渡し碑」があるところでは、右岸の川崎市側に少しだけ東京都があったり、逆に二子玉川では左岸に神奈川県があったりします。この「奇妙な県境」はなぜ生まれたのでしょうか。
多摩川は本来の暴れ川だった
その理由は、多摩川の流路の変遷に関係しています。
2019年に発生した台風19号によって20か所あまりの護岸が壊れたことで、本来の多摩川は暴れ川であることが改めて認識されました。
山梨県甲州市にある標高1941mの笠取山を源に2000m級の山が連なる関東山地から流れ出す多摩川は、利根川や荒川と比べて流れが急勾配です。
そのため、ひとたび増水すると流れが強く、周囲に甚大な被害をもたらします。なお治水の行き届いていなかった江戸時代には、何度も洪水が発生しています。
多摩川では1907(明治40)年と1910年に相次いで洪水が起こり、流域に被害が出ました。これに対して現在の川崎市側の住民は1914年、神奈川県庁に押しかけて治水工事を要求。このときに住民たちが編みがさをかぶっていたことから、この出来事は「アミガサ事件」と呼ばれています。
1974年には堤防決壊、ドラマの一場面に
これを受けて、特に水害の多い河口から二子橋(川崎市)までの築堤としゅんせつ工事が1918(大正7)年から1933(昭和8)年まで行われます。国土交通省の「近代土木遺産リスト」に入っている六郷水門(大田区南六郷)は、このとき(1931年)に建設されたものです。
それでも、多摩川の河川改修は十分ではありませんでした。
1974(昭和49)年9月に上陸した台風16号の大雨で二ケ領宿河原堰(ぜき。川崎市)の左岸では、80mにわたって堤防が決壊し住宅を破壊します。二ケ領宿河原堰は、江戸時代からある二ヶ領用水に多摩川からの水を取り入れるための堰で、昭和になってコンクリートに改築されていました。
このとき被害の拡大を防ぐ目的で自衛隊が出動し、二ヶ領宿河原堰を破壊することで流路を変えよう試みます。
堰は当然、頑丈です。自衛隊は9回にわたって爆破を行い、ようやく流れを変えることができたのです。この水害で住宅が流れる様子はテレビニュースなどで全国に放映され、後にドラマ『岸辺のアルバム』の一場面として使用され、現在にも伝わっています。
かつては境界をめぐって村同士が紛争も
そんな暴れ川の名残となっているのが「奇妙な県境」であり、両岸にまたがる地名です。
・布田
・等々力
・宇奈根
・和泉
・丸子
・沼部
・瀬田
など、いくつもの地名が東京都と神奈川県の両方にあります。これは多摩川の流れが変わったことで村が分断されてしまった名残です。
現在の多摩川の流れに沿って東京都と神奈川県を境界にすることが決まったのは、1907年の洪水後です。それまでは、流路が変わる度に境界をめぐって村同士が紛争になることもしばしばあったといいます。
もっともなじみのある分断された地名とは
もっともなじみのある分断された地名は、丸子でしょう。
東急多摩川線には下丸子駅(大田区下丸子)、東横線には新丸子駅(川崎市)があります。ほかにも上丸子、中丸子と丸子と呼ばれる地域があり、丸子はかなり広いことがよくわかります。
多摩川で分断されて、今ではまったく別の地域のように見えますが、実際には橋もかかっているので散歩がてら歩いて回れます。
二子玉川の名前の由来
一方、まったく違うのが二子という地名です。
これも東急線の二子玉川駅(世田谷区玉川)と二子新地駅(川崎市)があるので分断された土地だと考えられがちです。しかし二子という地名は神奈川県だけのもので、東京都にはありません。
もともと東京都側には玉川村、川崎市側には二子村があったのですが、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄が大井町線を開業(1927年)する際に、二子玉川という地名をつくったのです。
これには理由があります。
川崎市側の二子では二子橋ができたのをきっかけに三業地(芸者置き屋・待合・料亭の歓楽街)が開設され、川の幸をメインに大いににぎわいます。それもあって、二子への最寄りという意味も込めて、この地名が付けられたようです。
ひとつの地図上の興味をひくスポットにも、こんなさまざまな物語があるのです。