戦争と感染症が生み出した奇跡の保存食 「缶詰」の知られざる歴史とは【連載】アタマで食べる東京フード(16)
味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。コロナ禍でも需要が急拡大 コロナの巣ごもり需要で、缶詰がよく売れています。 2020年の3~4月は買いだめに走る人が多かったようで、2か月の累計売上高が前年比で25%も急伸。5月から買いだめは沈静化しましたが、家飲み用、料理材料として、いまも好調な売れ行きが続いています。 今や日常食のお供としても浸透した缶詰。その進化は、感染症流行、自然災害、戦争などの歴史と切り離せない(画像:写真AC)「お酒のおつまみ」の缶詰ブームを巻き起こした「k&k缶つま」がそろう国分グルーブのセレクトショップ「ROJI日本橋」(中央区日本橋1)を訪ねてみて、缶詰を買いたくなる気持ちを身をもって体験しました。 「群馬県産 赤城山麓豚角煮」「さば味噌イタリアン」「マテ茶鶏のオリーブオイル漬け」「うにのコンソメジュレ」……と、メニュー名を読むだけでどんな味か興味がそそられるラインアップが80種あまり。ひとつずつ材料も味つけも個性的です。 これがパカッと開けるだけでいつでも食べられて、常温で3年間も保存できるのですから便利のきわみ。従来の保存性に、高い嗜好(しこう)性が加味されたのが、現代の缶詰といえるでしょう。 食の歴史をふり返ってみると、感染症流行、自然災害、戦争などの危機は、食品の保存性と衛生面に進化をもたらしたことがわかります。数ある保存食のなかでも、飛び抜けた大傑作である缶詰は、戦争から生まれました。 ナポレオンの要請で誕生した缶詰ナポレオンの要請で誕生した缶詰 戦争には武器弾薬が必要ですが、同じくらい重要なのが食料。戦争に明け暮れたフランスのナポレオンは、それを嫌というほど痛感していました。 その頃の保存食は干物、塩漬け、燻製、砂糖漬け、乾パン程度しかなくて、とくに軍艦で長期間の海上生活を送る海軍兵士は食料不足で栄養不良に陥り、体力の消耗による戦力低下が大問題になっていたのです。 ナポレオン(画像:ジャック・ルイ・ダヴィッド) そこでナポレオンは、12000フランの懸賞金つきで新しい食品貯蔵法を募集。1809年、賞金を獲得したのが、ニコラ・アペールが発明した「熱学的に封入された食物」と定義された缶詰でした。最初の製品は、牛肉入りの肉汁と、肉入りと肉なし両方のグリーンピースだったそうです。 1750年生まれのアペールは、科学者ではなく名シェフでした。彼が料理人として我慢ならなかったのは食物が腐ることで、フランス革命期より腐敗を防ぐ方法の研究に没頭。 「広口瓶にあらかじめ調理しておいた食品を詰め、コルク栓をゆるくはめ、湯煎(ゆせん)鍋に入れて沸騰点まで加熱し、30~60分加熱を続けて瓶内の空気を追い出したあと、コルク栓を押し込んで密封する」という方法を発明しました。これ、実はビン詰だったのです。 しかし、容器が違うだけで原理は同じであることから、アペールは缶詰の発明者として歴史に名を刻むことに。アペールが懸賞を獲得した翌年、最初に缶を採用したのはイギリスの商人ピーター・デュランドです。缶詰産業が大きく発展したのはアメリカで、とくに1861年に始まった南北戦争時、生産量と種類ともに急成長しました。 日本初は明治4年、イワシの油漬け日本初は明治4年、イワシの油漬け 日本初の缶詰は、長崎の外国語学校に勤めていた松田雅典が1871(明治4)年、フランス人教師から教わって試作したイワシの油漬け缶だったというのが定説。1875年、米フィラデルフィアの万国博覧会に派遣された水産官僚、関沢明清が缶詰の利用価値に衝撃を受けて現地で製造技術を学び、本格的な導入がはじまりました。 北海道5か所にサケ、マスの缶詰工場が建設されたのが1877~1879年。1881年の第2回国内勧業博覧会には、北海道から九州までの各地から土地の特産物を原料にした100種以上が出品され、なかにはエゾジカ肉、カメ肉、ヒバリやハクチョウなど野鳥肉の缶詰もあったそう。 1881年『第二回上野内国勧業博覧会ノ図』(画像:国立国会図書館デジタルコレクション) その急速な広まりからは、缶詰がいかに人々から歓迎されたかが伝わります。食物が腐らず保存できる缶詰は、それほど革命的だったのです。 1883年を過ぎると、一種のブームだった缶詰熱も落ち着きました。本格的な普及は、日清戦争(1894~1895年)で兵食に使われて以来。軍隊が重用した「牛肉大和煮」は、牛肉をしょうゆと砂糖で甘辛く煮たもので、はじめて肉に和風の味つけがされた国産缶詰第1号です。 よく考えると佃煮とまったく同じ、ありふれた味なのに、愛国調の勇ましい名前がよかったのか、大和煮はいまだに缶詰の定番であり続けています。 大正時代から昭和前期になると、サケ、マス、カニ、イワシ、ミカンの缶詰が重要な輸出品になって、外貨を稼ぎました。 大震災後に輸入コンビーフが大流行大震災後に輸入コンビーフが大流行 足の早いカニは取れたらすぐに船上で加工しなければならず、乗員の労働時間は1日12時間から、ときには19時間に及ぶことも。小林多喜二の『蟹工船』には、現在のブラック企業をはるかに超える非人道的な労働環境が描かれ、話題になりました。 戦前まで缶詰王国だったのが広島県。兵食供給の中心地だったことに加え、近県に牛肉や野菜、果実の産地が控え、カキやイワシなど水産物も豊富で、四季を通じて原料に恵まれていたためです。 一方、1923(大正12)年の関東大震災後、コンビーフ缶の輸入が増えて、大流行しました。国産のサケ缶が1缶30銭に対して300g入りが60銭程度と、輸入食品としては格安だったことと、なにより独特の塩辛さがご飯によく合いました。 ジャガイモと炒め合わせた「コンビーフハッシュ」が、当時の人気メニュー。戦前の家庭料理は、想像以上にバリエーションに富んでいたのです。こうして缶詰はモダンでハイカラな食品として、食生活に浸透していきました。 鮭ハラス(左下)、かき(左上)は、ともに濃いうま味とスモークの香りがよい相性。ベーコン(右)はマスタードの甘味と酸味がとけ合い、温めると脂がとろけて一体感が強まる(画像:畑中三応子) 最後に「ROJI日本橋」に話を戻すと、「k&k缶つま」不動の売上ベストスリーは、「鮭ハラス燻製(くんせい)油漬け」「広島県産かき燻製油漬け」「厚切りベーコンのハニーマスタード味」。魚、貝、肉がまんべんなく並んでいて、バランスのいいラインナップに感心しました。
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