出てきてビックリ!? 東京のそばはなぜ「量が少ない」のか
老舗に関する「謎ルール」 東京にはそばの名店がいくつも存在し、それらについて語れる人は「大人のたしなみ」があると見なされます。一方、東京のそば店、とりわけ老舗の名店には「謎ルール」があります。 例えば、水の入ったコップが出てこない(もちろん全店ではありません)。ましてやお茶なんてもってのほか。これは、そばを食べる前に水やお茶を飲むと、そばの繊細さがわからなくなるからと言われています。 筆者は美食家ではないので真偽のほどはわかりませんが、日本酒を飲みながらそばを待つのがルールと力強く主張している人を見ると、「そっちの方が味がわからなくなるのでは……」と思ってしまいます。 ほかにも、「お酒を飲んで、そばを手繰ってさっさと店を出る。満腹になるような食べ方はダメ」というルールを主張する人もいます。満腹になりたいときは立ち食いそば屋にでも行けというメッセージなのでしょうか。そりゃあ、あんまりってもんです。 いったい、どうしてこんな謎ルールが存在するのでしょうか。そばに関する文献は数多く存在していますが、その理由について記しているものは、見当たりません。 東京のルールはローカルだった東京のルールはローカルだった このルールについて触れている記事はないかと、全国の新聞記事を探してみたところ、次のようなものが見つかりました。 量の少ないそばのイメージ(画像:写真AC)「酒を飲んで、締めのそばを食べ終えれば、すっと店を出る。長居をせずに過ごすことから、そば屋での酒は粋とされたようだ。(中略)『働き者が多い新潟では、そば屋は食事をする場所であって、昼からお酒を飲んでそばを食べる文化はあまり育たなかったようですね』」(『新潟日報』2018年10月20日付夕刊) 「『せんべいとたくあんとそばは音をたてて食べるのがおいしいといいますが、そばの場合は江戸時代に自然に出てきたのでしょう』。そう言うのは東京の神田藪蕎麦(そば)社長の堀田康彦さんだ。そばを長くつなげる技術を競い合った時代で、しかも『長居は野暮(やぼ)』とされるそば屋だ。長いそばを急いで食べる。いきおい音をたててかき込むことになる、と▼それが「粋(いき)」な食べ方として定着したらしい」(『朝日新聞』2001年5月27日付朝刊「天声人語」欄) 「東京ではそば店に入ったらまず酒を注文して、酒で胃袋を和らげてからそばに移る。それに比べて北海道ではそば店で酒を飲む場面は少ない。『なぜだろう』と先日、東京育ちのそば好き氏に質問された。銘酒を置くそば店はいわゆる高級店に多い。逆に大衆店は酒を置かないか、置いてもコップ酒程度。長居する客も困るという本音が見える。一方、食べる側も『そば屋で酒などとはぜいたく』という勤勉思想が引き継がれ、『そば屋で酒』が定着しないできた」(『北海道新聞』1999年7月16日付夕刊) こうして見ると、東京におけるそば屋のルールは、本当に限られたエリアでしか通用しないものであることがわかります。 長野のそばの量にビックリ!長野のそばの量にビックリ! さて、全国有数のそばどころである信州の人たちにとって、東京のそばは奇異に映るようです。なぜかと聞けば、 「あまりに量が少なすぎる」 とのこと。 確かに名店と呼ばれる老舗では、「もり」であれば、少なくとも3枚は食べないと満腹になりません。東京のそばの味そのものには信州人も納得していますが、量については大いに疑問があるようです。 確かに長野県に行くと、どの店も量は多いです。県東部の上田市に、作家の池波正太郎さんが『真田太平記』の執筆中に通ったことで知られる、刀屋という老舗があります。 長野県上田市にある「刀屋」(画像:(C)Google) 同店のそばがおいしいのは当然ですが、筆者が店を訪れ、大盛りを注文したとき、「うちの大盛りを食べたことありますか? まずは中盛りをお出ししますので、大丈夫そうだったら追加しますね」と言われました。 やって来たそばは、まるで富士山のよう。負けてはいられないと、気合を入れて大盛り分も完食したのですが、ゆうに1kg近くありました……もちろん、ここまでの量は県内でも例外です。 そんな状況に慣れた信州人が、東京のそばに対して「あまりに量が少なすぎる」と言うのは納得できます。作家・椎名誠さんも同様の疑問を持っているらしく、著作『殺したい蕎麦屋』の中で、量の少ないそば屋に対して言及しています。 そばを取り巻く「粋」への懐疑そばを取り巻く「粋」への懐疑 かつて江戸の街では「そばは三つ箸半」という格言があったとされています。これは、箸で3回半つまんでたぐって食べ終わるくらいがちょうどよい量という意味です。しかし、この格言を取り上げている文献はありましたが、誰が言い出したのかは見つけられませんでした。 東京では「そばは細くてのびるのが早いから」という説もありますが、そこまで早いのだろうかと疑問は残ります。 この疑問を解く鍵となりそうなのが、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』です。 夏目漱石『吾輩は猫である』(画像:新潮社) この小説に登場する粋人の迷亭先生は「饂飩(うどん)は馬子が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」と、うどん好きが聞いたら激怒しそうなことを平気でいい放つ蕎麦党です。 そんな迷亭先生ですが、作中では「笊(ざる)は大抵三口半か四口で食うんですね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ」とも語っています。 ここから見えてくるのは、そば屋には長居をしないので量の少ないのが当然で、さっと食べてさっと出るのが粋だと思っている人がいる一方、そんな粋にばかばかしさを感じている人もいたということです。 類推するに、そばはのびやすいので何枚か食べて腹を満たすものだったのが、誰かが「さっさと店を出るのが粋」と言い出したら、いつの間にかそれが定着したのではないでしょうか。現代もラーメン店で似たような独自ルールがあるのを見ると、この説が一番正しいような気がします。 古典落語『そば清』の枕で「死ぬ前に一度、つゆをたっぷり付てそばを食べたかった」と言い出す江戸っ子の話は有名です。結局はそばも量の少なさも、やせ我慢を粋と考える風潮がいつの間にか伝統文化になったということなのでしょう。
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