今よみがえる開高健と「昭和」の記憶――没後30年、杉並「開高健記念文庫」を訪ねて

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今よみがえる開高健と「昭和」の記憶――没後30年、杉並「開高健記念文庫」を訪ねて

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テリー植田

イベントプロデューサー

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作家・開高健の死から2019年12月で30年がたちます。そして、2020年は生誕90年という節目も迎えます。「今こそ開高健に関する著作を手に取り、偉大な足跡をなぞってみてほしいほしい」とイベントプロデューサーのテリー植田さんが熱く語ります。

「森羅万象に多情多恨たれ」

 イベントプロデューサーのテリー植田です。イベントプロデューサーとして一番大切にしていることは好奇心です。この好奇心について著作やテレビのドキュメンタリー番組などを通じて教えてくれたのが、作家でありサントリーのコピーライターであった開高健です。

 小説、ルポルタージュ、釣り紀行文、酒と食、ベトナム戦争、モンゴルなどありとあらゆる文化を凝視し、それを珠玉の言葉で表現した多くの作品を、開高健は残してくれました。

 体験型の偉大なる表現者。残念ながら今の若い人たちには名前すら知られていないかもしれません。この好奇心についての開高健の言葉「森羅万象に多情多恨たれ」(週刊プレイボーイ編集部に贈った生き方心得である「編集者マグナ・カルタ九章」から)は、今も胸に刻む大切な言葉です。つまり興味がないものにこそ、もっと好奇心を持って生きようと。

 2019年は開高健の没30年、2020年は誕生90年のメモリアルイヤーになります。今こそ、彼の足跡を振り返ってみたいと思います。

杉並区井草の「開高健記念文庫」には、開高の関連本がびっしりと並んでいる(画像:テリー植田)



 壽屋(ことぶきや、現サントリー)宣伝部のコピーライターにして芥川賞作家。26歳でネズミ大量発生をモチーフに人間の欲望を描いた小説「パニック」(1957年)を発表し一躍文壇の注目を浴び、翌1958(昭和33)年には「裸の王様」で第38回芥川賞を受賞しました。

 1964(昭和39)年オリンピック開催時に『ずばり東京』を刊行した後、朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナム戦争に従軍、『ベトナム戦記』『輝ける闇』『青い月曜日』『夏の闇』を刊行し、文学界に大きな足跡を残しました。

 世界中を巡った釣り紀行『オーパ!』(1978年、写真・高橋昇)のほか、グルメの寄稿も数知れず。「何も足さない。何も引かない。」という、金字塔とも言えるサントリー山崎のコピーライティングは、お酒を飲まない人でも知っているはずです。

 この名コピーの影響で僕は、広告やTVCMの世界に入りたいと強く思うようになりました。僕が開高健を読み始めたのは1986(昭和61)年ごろ。中学3年生でした。週刊プレイボーイを買ってはグラビアのページを眺めた後は、開高健の「風に訊け」を読むのが楽しみだったのです。今思うと、よく中学3年生で開高健が好きになったなァ、と自分で自分に感心するのです(この頃、音楽では「プリンス」に没頭していました)。

昭和の東京五輪を活写した著作

 そして最後の作品となった『珠玉』(1990年、文藝春秋)は、宝石にまつわるエッセイ風の小説です。

「フィッシュオンチップス」や「オガ屑」の話など、知っているエピソードが満載。濃厚にしてぐびぐびと飲ませるような言葉たちに吸い込まれていくような読書体験――。この『珠玉』から僕は開高健に本格的にハマったのでした。

 誕生日プレゼントとしてこの本を何人の友人に贈ったことか。宝石はあげられなくとも、宝石の本は高校生でも買うことができたから。

 2019年、20年は、ずばり開高健イヤーなのです。

 1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックの前年に高度成長する東京を書き尽くしたのが開高健の名著『ずばり東京』。2019年は東京オリンピック・パラリンピック開催の前年で、偶然にも「パニック」さながら渋谷、銀座、築地などでネズミ大量発生のニュースがあったのです。

 二度めの東京五輪を翌年に控えたこのタイミングに合わせて、開高健の最新刊『開高健のパリ』(2019年、集英社)が刊行されました。さらに「はじめての開高健」という開高健入門ガイドブック(同年、集英社)という電子版の記念冊子が発表されています。無料でダウンロードできるのでぜひ読んでみてほしいと思っています。

無料でダウンロードできる『はじめての開高健』(画像:集英社)



 角田光代さんと行く開高健記念文庫の巻頭特集や、「トップランナーが語る開高健」として、冒険家・作家の角旗唯介さん、博報堂のスピーチライターひきたよしあきさん、ヤフー事業プロデューサーの藤原光昭さん、サン・アドのコピーライターである岩崎亜矢さんら、ゆかりある開高ファンのインタビューも掲載されていて、何とも語りの熱量がすごい。

『開高健のパリ』に関する角田光代さんのコメントも寄せられていて。開高健という人間と言葉の匂いを見事に言い表しています。角田光代さんいわく、開高健は、年齢に関わらず最初から確固たる文体を持っている完成系の作家であった、と。

 これは僕の勝手な解釈ですが、「開高健 = プリンス」なのではないでしょうか。プリンスというのはもちろん、言わずと知れたあの米国のシンガーソングライターのプリンスです。

 開高健は、26歳で「パニック」の名作を生み出し文壇のスターとなりその後、『裸の王様』『日本三文オペラ』『ロビンソンの末裔』『輝ける闇』『夏の闇』と名作をたて続けに刊行しました。

 プリンスは同じ26歳で「パープルレイン」が大ヒットした映画とともに世界的スーパースターとなり、その半年後に『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』をリリース。「パレード」「サイン・オブ・ザ・タイムス」「ラブセクシー」「バットマン」と不朽の名作を80年代に残しました。

 開高健とプリンスのふたりは完成型のスターであり、同じ58歳でこの世を去りました。

 晩年、開高健はバックペイン(背部痛)の治療で茅ヶ崎のプールで泳ぎながらも最後まで病床で「珠玉」の原稿を書き続けました。プリンスはミネアポリスで重い腰痛に悩まされながらも自身が持つレコーディングスタジオ「ペイズリーパーク」で録音を最後まで続けたといいます。まさに「完成型」のふたりだと思うのです。

「記念文庫」で残されていた、開高の匂い

 そんなことを考えながら先述の『はじめての開高健』を読んだ僕は、紙面で紹介されている開高健記念文庫(杉並区井草)へどうしても行きたくなったのでした。

 茅ヶ崎の記念館では開高健トークライブの司会をやらせていただいたので行ったことがあったけど、開高健記念文庫の存在は知らなかった。開高健記念文庫のサイトを見て取材をさせてほしいという問い合わせのメールを入れ、取材承諾の返事がその日のうちに来たのでさっそく自宅の最寄駅の西武新宿線久米川駅から井荻駅へと向かいました。

 初めて降りた井荻駅。駅前のスーパーマーケットの角を曲がって住宅街の中へ行くと、開高健記念文庫があります。大阪から上京した開高健が1958(昭和33)年から1974(同49)年まで暮らした旧宅を改築し、記念文庫として公開したものです。

住宅街の中に佇む開高健記念文庫(画像:テリー植田)



 建物自体は2002(平成14)年に改築されていますが、全著作、関連雑誌、開高健が手に取った蔵書、直筆原稿、写真がぎっしり展示されています。貴重な映像のアーカイブもズラリと並びます。ここに足を一歩踏み入れれば、開高ファンなら一瞬にして全身鳥肌モノでしょう。

 開高健の『ずばり東京』はこの場所で書かれたものです。大阪から上京した開高健が小説に行き詰まり、あらゆる文体、発想、テーマで書き続け、自分の殻を破ろうとした時期でした。

 そして、大阪人の開高が東京まるごと言葉で言い尽くしてやろうと果敢に挑んだのが『ずばり東京』でした。週刊朝日の人気連載で、毎回違う文体で書くという方針を打ち出し、独白体、会話体、子供の作文調などと文体を変えて、1963(昭和38)年秋から1964年10月のオリンピック閉会式までの間、変容する東京に迫り、書き上げたルポです。今から55年前の東京の姿が残されています。

 若き開高健の姿が開高健記念文庫にはありました。ぜひ、多くの人に『はじめての開高健』を読んで、開高健記念文庫に足を運んでほしいと思っています。開高健の人間味と言葉の匂いを感じてもらえることは間違いないと思います。

 2019年12月17日には東京カルチャーカルチャー(渋谷)で開高健にまつわるイベントも開催される予定です。

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