東京生まれ東京育ちは、本当に「うらやましい」のか?【連載】記憶の路上を歩く(4)

東京に生まれて東京に育つとは、一体どういうことなのか。変わり続ける「故郷」への思いは、寂寥感と心地よさとが表裏一体のようだと、編集者の影山裕樹さんは語ります。


東京生まれ 最初の記憶は祖母と井の頭公園

 コロナ禍にあって旅行もままならない今、この連載もまた一種の「旅の記録」のようになってきました。

 みなさん、人生で最初の記憶ってありますか? 僕(影山裕樹。編集者、千十一編集室代表)の場合は、祖母におんぶされ、まぶたに刺す井の頭公園(武蔵野市御殿山)の池から反射する光に眩しくなり目を覚ました瞬間です。

 とはいえ、不思議と中央線の車内の椅子に寝転がっていたことや、うとうとしながらも吉祥寺駅から井の頭公園に向かう道すがら、祖母の背中越しに眺めた風景もなんとなく覚えています。

 僕はおばあちゃん子だったので、この日のように、祖母に連れられ都内をあちこち行きました。以前公開した記事(2020年9月22日配信「としまえん無き今、今後の東京に絶対欠かせないのは「あらかわ遊園」だ」)のように、あらかわ遊園(荒川区西尾久)にももちろん行きました。

 晩年の祖母は新宿の小田急百貨店で清掃員のパートをしていたので、屋上にある、清掃員の詰め所に集まる同僚と祖母がお茶を飲んで世間話をしている風景や、祖母の仕事にくっついて店内をぶらぶらと歩いたこともよく覚えています。

 当時は、大きなデパートを背負って立つ立派なおばあちゃんと誇らしかった。とはいえ、実際はなんのことはない、どこにでもいるパートのおばさんだったのでした。

 そういえば、小田急線沿いの読売ランド前駅だか新百合ヶ丘駅あたりにあった、祖母ととても仲の良かった、“祖父”の家に遊びに行ったこともあります。しかし不思議なことに、祖父の家には祖父の奥さんと息子さんが住んでいました。

もう記憶の中にしか存在しない祖父

 高校生の頃、祖父が亡くなったので母に連れられて葬式に行ったのですが、当時かわいがってくれた祖父の奥さんも息子さんもどこかよそよそしく、何より自分のまったく知らない祖父のことが葬儀のあいさつで話されていたり、僕と母に対する視線がとても冷たかったりしたのを不思議に思って、帰りのバスの中で母に尋ねると、「え、ジージは本当のジージじゃないのよ? 知らなかったの?」ととぼける母。

 ひっくり返りましたね。どうやら祖父と思っていた人物は祖母を妻公認の愛人としていたらしく、その孫である僕のこともかわいがってくれていたそうなのです。

 祖父に連れられて生まれて初めてパチンコ屋に行きました。手先が器用で、お手製の飛行機やジオラマを作って、部屋にたくさん飾ってくれました。もともと大工をやっていて東京タワーの下の建物を作ったんだよ、と言っていて、そのことがまた子どもの頃の自慢でした。

筆者が生まれ育った街にある、中野サンモール商店街(画像:影山裕樹)



 祖父は祖母が亡くなった後はうちへやってくることも減り、電話しても釣れないことを言う。ある日突然来たと思ったら僕と祖母の暮らした部屋の中のものをあらかた窓の外にぶちまけて、祖母がつぎはぎししてくれて、大事に着ていた赤いちゃんちゃんこを、勝手に捨ててしまうので悲しい気持ちになりました。

 でも一番悲しいのは、もう祖父とのつながりは記憶の中にしか存在しないということです。

 あと、祖父はきれいに禿げていたので遺伝で自分も禿げるのかな、と子どもの頃はビクビクして過ごしていましたが、血がつながってないのと、本当の祖父は誰だか誰も知らないので将来どうなるかわからないので結局ビクビクして過ごしています。

おでん屋台には、きっともう出会えない

 スタジオジブリの『コクリコ坂から』という映画がありましたが、戦後復興の喧騒(けんそう)の中で、僕のように血のつながりを感じることのできない、あるいは血縁があいまいな出自でも前を向いて生きていかないといけない人は昭和生まれの人には多いと思います。

 特にうちみたいな母子家庭出身者は社会階層も低いので、とてもじゃないが東京で持ち家なんて持てないので実家が漂流したり無くなったりしている場合も多い。

 そういえば、祖父の家の近くで「ガチャガチャ」を買ってもらいました。勾配のある坂の途中で、カプセルを開けては閉めるあの感触をなぜか忘れることができません。なんでそんな些末(さまつ)なことを覚えているんだろう。

 ガチャガチャといえば、住んでいた江古田の家からすぐのところにある食料品店の前にガチャガチャがあって、20円で買えるドラゴンボールのカードダスをなんども買っていました。

 キラが出るとうれしいんですよね。ちなみにそこの店員さんもきれいに禿げていました。うちでは「となりのお兄さん」と呼んでいて、夕飯時になると「となりのお兄さんのところ行ってきて」と言われ、おつかいついでにガチャガチャを回していたのでした。

おでん屋台が来ていた、あの角(画像:影山裕樹)



 その先の角には夕方おでんの屋台がやってきて、そこで買うはんぺんがとてもおいしかった。先日、25年ぶりくらいに訪れてみました。僕が住んでいたアパートも、となりのお兄さんのお店もありませんでした。

 おでん屋台があの角に来ることはもうないでしょう。江古田の森公園で遊ぶ子ども、その親御さんたちの中に、僕の知っている人はいないでしょう。長い煙突のある銭湯が残っていたのが唯一の救いでした。

生まれても育っても、皆よそものの街

 ずっと東京に暮らしていても、引っ越して地域との縁が切れればまったく他人の街になってしまう。故郷があるようでない、東京生まれ東京育ち民あるある。

 しかし、ふと思うのは、関東大震災や戦災で何度もリセットされた東京の街並みにあって、50年も経てばみんなよそものだよね、ということ。

 50年経つとそこで暮らす人がほとんど総入れ替えになるじゃないですか。時代が変われば、常識も変わる。もちろん先祖の記憶や偉人のモニュメントはその土地に残るが、それを眼差す人が変わればまったく違う街と言っていい。もうここは、令和の江古田なんだ。

 万引きを見て見ないふりしてくれたとなりのお兄さんの店もそこにはもうなく、毎晩集会していた野良猫たちも全員代替わりしている。暮らしている人も変わるのだから、そりゃあ25年も経てば見知らぬ土地。特に東京は商業施設も住宅も代替わりが早い。

 そこに帰ってきたという安心感もなく、つながりも薄く、故郷を感じることはまったくできませんでした。このように、僕みたいな「漂流都民」も実は多いのではないでしょうか。

 中野サンモールにかつてオウム真理教が出していた飲食店があって、チラシを配っていたのですがそれを見て同級生とひっくり返りました。江古田の自宅の前には麻原彰晃の選挙カーが「しょうこうしょうこう……」って叫びながら走っていました。

 情報番組『ズームイン朝』で毎朝、ウィッキーさんが天気をお送りしてくださっていたのが地元民が誇るあの哲学堂(中野区松が丘)だってこと知っている人、いまどれくらいいますかね?

背中合わせの「寂寥感」と「心地よさ」

 赤提灯やスナックの雰囲気が流行(はや)っている、ということで、それ風のお店を再開発で建ててみせながらも、ホームレスや反対派の声は届かないデベロッパー主導のまちづくりによって、都市の寛容さが失われることは大きな問題だと僕は感じています。

 一方で、由緒正しき、いや、先祖とのつながりが追えるような、土地に根差した家で育った人もいれば、そこからこぼれる根無し草の都民もいる。何より僕自身がそうだから。

 東京生まれ東京育ちってうらやましい! 中野出身って、大都会じゃん! シティボーイだね! って言ってくれる人もいるんですが、なんか的外れというか、妙な寂寥(せきりょう)感を感じますね。

 心落ち着ける「故郷」を持たず、誰とも共有できない私的な記憶を携えて、亡霊のように彷徨(さまよ)うことしかできない。それが生まれ育った街なのだという、どこか実存の落とし所のない感覚。

 もう中野区に家もないので、サンプラザ無くすの反対! と叫んでも、「お前、別に住んでないじゃん」と言われれば反論ができない歯がゆさというか虚しさをどう解決してやろうか、と悩みます。

 でも一方で、激しい新陳代謝によって街並みは移り変わり、記憶の中にしか存在しない風景は色あせていくし、そのことで「自分がそこにいたという証拠」を流し去ってくれるかのような「時間の寛容さ」に、匿名の街で匿名に暮らし誰にも知られずに老いさらばえることに、どこか心地よさを感じてしまう自分もまた存在するのです。


【画像】懐かしい「東京」の原風景(3枚)

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