「敵弾の破片が3つ、今も俺の体内に」 元特攻隊員が語った忘れられない戦争の記憶【連載】東京タクシー雑記録(4)
タクシーの車内で乗客がつぶやく問わず語りは、まさに喜怒哀楽の人間模様。フリーライター、タクシー運転手の顔を持つ橋本英男さんが、乗客から聞いた奇妙きてれつな話の数々を紹介します。「俺は16歳で予科練に入った」 フリーライターをやりながら東京でタクシーのハンドルを握り、はや幾年。小さな空間で語られる乗客たちの問わず語りは、時に聞き手の想像を絶します。自慢話に嘆き節、ぼやき節、過去の告白、ささやかな幸せまで、まさに喜怒哀楽の人間模様。 さまざまな客を乗せて走る東京のタクシーのイメージ(画像:写真AC) 今日はどんな舞台が待っているのか。運転席に乗り込み、さあ、発車オーライ。 ※ ※ ※ 2002(平成14)年の秋。品川のホテルから乗った老人は「あのね、羽田空港まで頼むよ」と言いました。 亡き俳優の勝新太郎をだいぶ年上にしたような、貫禄ある所作。まだ昼近くなのに酒の香りが漂い、たいそうご機嫌が良い。羽田へはここからだと高速道路で30分と少しです。 「お客さん、だいぶんとご機嫌ですね」 「おう、いつもこんなもんだ」 「そうですか」 「俺はね、特攻隊の生き残りだ」 「え?」 「海軍の特攻隊よ。映画で見たことないかなあ。俺は16のときに茨城の土浦海軍航空隊に入った。予科練というやつだ」 神風特別攻撃隊の生き残り――。突然の告白に少々戸惑いながらも、その語り口に自然と引き込まれていきました。 「その話、もう少し聞かせてもらっていいですか?」 「国力が違う、勝てるわけない」「国力が違う、勝てるわけない」「ああいいよ。あそこの訓練はきつくて地獄だった。30分も教官にしごかれると小便に血が混じった。あの時代だから通用したんだろうな。訓練中に気絶したまま正気が戻らずそのまま墜落した仲間もいた」 彼はフィリピンの飛行場にいたとき、アメリカ兵との空中戦を経験したことがあると言いました。 「連中は、こいつにはかなわんと分かると、操縦席の窓を開けて『バイバイ』と笑いながら手を振っていく。俺たちにはあの神経が分からんかった。国民性の違いというか、国力の違いというか、余裕が感じられた。あんな国を相手に勝てるわけがない。そう思ったんだよ」 彼の体の中には、敵弾の破片が三つ、今も入っていると言います。被弾したときは、痛いより燃えるように熱かった記憶がある、と。 全身血だらけの「死人みたい」になって、味方の基地に帰ることができた。そのときの弾は手術で取るのは難しい場所で、ずっとそのまま残っているのだ、と。 「それってすごい話ですね」 私は思わず感想を漏らしました。男性は窓の外の風景をじっと眺めています。 「終戦があと1週間遅かったら俺も」「終戦があと1週間遅かったら俺も」「少し上の先輩や同期や後輩たちのほとんどが死んだ。あと1週間も終戦が遅かったら俺も靖国神社だった」 「お客さんはすごい人生を送ってこられた」 「うん、ひどい時代が俺の青春だ。今じゃ考えられんよ」 「そうですか」 戦中の体験をとつとつと語る老人のイメージ(画像:写真AC) 彼はその後も終戦後のさまざまな経験を語り、しきりと相づちを打つ私をチラッと見てこう言いました。 「あんたとは妙に話が合うね」 「いえそんな。私なんかただのタクシー運転手です」 「そんなことないよ、あんたの仕事もこうやって人の命をあずかっているからたいしたもんだ。俺はたまたまだよ」 「ありがとうございます」 羽田まではあともう少し。車窓の外はどんよりとして雨になりそうな気配が漂っていました。 「靖国へは年に2、3回参ります」「靖国へは年に2、3回参ります」 それから1年近くたった2003(平成15)年初夏。九段坂(千代田区九段南)の靖国神社交差点から腰の曲がった老人を乗せました。ずいぶんとやせて、足取りもヨタヨタと少し心もとない感じ。 「湯島までお願いします」 「湯島のどのあたりですか」 「近くに行ったら案内します。あまり急がなくていいです」 「それじゃ湯島天神に向かっていきますね」 「そうしてください」 車窓の外は金曜日の午後というのもあって渋滞気味です。とりあえず私は水道橋からのルートにしました。どこもここも人混みが絶えません。 「あのう、おじいちゃんは靖国神社へ参拝でしたか」 ふと気になり、私は彼に話し掛けました。 「そう、戦友に会いに来たのです。みんな仲が良くて、俺が行くと、戦友が目の前に現れる。昔のまんまの姿で。だから年に2、3回は来ているんです」 「そうですか、戦友の方が。本当にご苦労さまです」 「死んでいった戦友はみんな優秀な奴でした」 「そうでしょう、そうでしょう」 「今79歳になります。戦争で一番多く死んだ年代です。私は飛行機乗りでした。昔の戦闘機ですが」 わずか1年弱の間にふたりも元「飛行機乗り」の男性を乗せた偶然に驚きながらも、私は彼の話をもっと聞きたいと思い、質問を向けました。 「早く死にたい、死なせてくれ」「早く死にたい、死なせてくれ」「ラバウル航空隊ですか?」 「いや、ラバウルはゼロ戦。私はシデンカイ(紫電改)、航空性能はゼロ戦より数段上でした。私たちはアメリカのグラマン戦闘機とは数えきれないくらい空中戦をやったんです」 「……それはそれは」 そう言って語る彼の体験もまた、想像を絶するものでした。 「空での実戦も命がけですが、新米の訓練がもっとひどかった。特に急降下訓練は血圧が急上昇するから気を失います。一瞬でも気を失うと地上に激突です。運転手さんは血の小便なんてしたことないでしょう。俺たちは何度もしました。そうやって次々と戦場に送り出された。良いことなんて何もありませんでした」 さまざまな客を乗せて走る東京のタクシーのイメージ(画像:写真AC) 彼は終戦直前には特攻隊として何度も出撃しましたが、エンジントラブルでの不時着などが重なり、奇跡的に生き残ったと言います。こうして生きているのが今でも不思議なのだと言います。 「……生きて(基地に)帰るたびに『バカモノー! 貴様、どうして帰った』と、上官に怒鳴られてね、ああいうときって、人間の本性が見えてね、戦争に負けるのは俺たちでもうすうす分かっていた。とても辛かった。2度目に帰ったときは、身の置き場もなくて、心は『早く死にたい、死にたい。早く死なせてくれ』です。弁解なんて口が裂けてもできない」 「話を聞いてくれてありがとう」「話を聞いてくれてありがとう」「生きても地獄、体当たりで死んでも地獄ですね」 私がそう言うと、男性はふっと黙り込んでしまいました。 「誰ひとり、おじいちゃんを卑怯者なんて言えないですよ。その怒鳴りつけてきた上官は、その後どうなりました」 「も、もちろん生き残り、その後どうしたかは分かりません。ある会社の重役になって人並み以上の暮らしをしていたなんて、そんなウワサもありますが知りたくもありません」 渋滞を抜けたタクシーは、彼が目指す湯島の周辺に近づいていました。 「あ、もうすぐ目的地になります」 「話を聞いてくれてありがとう、運転手さん」 「またどこかでお会いできるといいですね」 「そうだね」 老人の話に感動して、彼が車を降りるとき、私は握手をしてもらいました。そのとき、老人は大きな笑顔になりました。 2021年。終戦から76年が経ちます。ふたりの老人との出会いからも、すでに20年近く。あの戦争を語ってくれた元・戦闘機乗りたちは、どうしているでしょう。 ※記事の内容は、乗客のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。
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