1934年、沢村栄治とスタルヒン
もうずいぶん前のことのように感じますが、2020年のプロ野球は当初、東京オリンピックが開催される関係で、例年より早い3月20日(金・祝)の開幕を予定していました。
それが新型コロナウイルスの感染拡大により延期され、紆余(うよ)曲折を経てようやく6月19日(金)開幕が決定しました。
サッカーはもちろん、最近はラグビーやバスケットボールなども盛んになり、「一億総スポーツ」の様相を呈していますが、でも人気のトップはやはりプロ野球でしょう。
「プロ野球が行われることの喜び」をいつも以上に感じる今こそ、振り返りたい選手がいます。
巨人軍の草創期に活躍した、沢村栄治とロシア帝国生まれのヴィクトル・スタルヒンの若いふたりの投手。ともに圧倒的な活躍を見せた投手です。
プロ野球の開幕を待つ東京ドーム(画像:(C)Google)
ふたりは1934(昭和9)年、読売新聞社が招聘(しょうへい)した全米選抜チームを迎え撃つ全日本チームのメンバーとして選抜されました。
沢村は京都商業5年、17歳。スタルヒンは旭川中3年、同じく17歳。
いまの高校2年生に当たります。学年に差があるのは、スタルヒン一家がロシアから日本に亡命してきたため、入学が遅れたためです。
なぜ高校生くらいの少年が選ばれたのかというと、当時最も人気の高かった六大学野球は「教育第一」として不参加を決めたため、社会人野球の選手だけでは足りず、視野を中学生まで広げたからです。
27歳の若さで戦死した「幻の投手」
この年の晩秋、日米野球試合は全国各地で18試合行われましたが、最後まで太刀打ちできず、全敗を喫しました。でも第9戦は沢村が好投して1対0の大接戦を演じました。スタルヒンは第17戦の途中から登板、1回を三者凡退に退けました。
この日米野球がきっかけで1936(昭和11)年、日本職業野球連盟が誕生し、読売新聞社が日米野球選抜メンバーを中心に東京巨人軍を結成し、ふたりも参加します。
合計7チームによりスタートし、春はトーナメント戦でしたが、秋からはリーグ戦になりました。
沢村はこの秋、19試合に登板して3勝3敗、翌1937年は50試合に登板し、36試合に完投して33勝(完封11)10敗、防御率1.38をマークしたうえ、日本初を含めてノーヒット・ノーランを3回もやってのけたのです。
50試合登板といい、36試合完投勝利といい、いずれもいまでは想像できない数字です。
沢村栄治を題材に、さまざまな書籍も出版された(画像:さ・え・ら図書館)
しかし日中戦争が始まり、沢村は出征して戦地へ赴きます。したがって1938年、1939年の記録は無し。凱旋(がいせん)した後の1940(昭和15)年は7勝1敗。1941年は9勝5敗の成績でした。
この年の12月8日、太平洋戦争が起こり、沢村は再び戦線に赴きますが、1944(昭和19)年12月2日、東シナ海で戦死します。
まだ27歳の若さでした。
出身地・三重に残る「G」と「14」
生涯の記録は登板数105、完投65、完封勝ち20、勝利62、敗戦22、防御率1.71。もし戦争にとられなかったら、どれほどの戦績を残したものか。いまもなお「幻の投手」といわれるゆえんです。
「幻の投手」と呼ばれる沢村栄治(画像:合田一道)
三重県伊勢市岩淵町の一誉坊墓地にあった沢村の墓は、墓じまいされて台座だけが残っています。ボールをイメージした丸い石と、ジャイアンツを表す「G」と背番号の「14」が刻まれていて、遠い日をしのばせます。
まだ投げられる、と言い残し
スタルヒンもまた191cmの長身から快速球を投げ込み、好成績を挙げました。
1939(昭和14)年は42勝、1940年は38勝をマークし、2年連続で最優秀殊勲(しゅくん)選手に。しかし太平洋戦争が始まると「敵性外国人」と見なされ、しばしば警察に連行されるなど悲しい思いをします。
日本国籍を得ようと氏名を「須田博」に変えますが、強制収容されて野球と引き離されます。
戦後すぐプロ野球界に復帰しますが、巨人には戻らず、かつての師、藤本定義元巨人軍監督に従い小さな球団を渡り歩きます。そして1955(昭和30)年、日本のプロ野球史上初の300勝を達成します。
そのとき、スタルヒンはNHKアナウンサーの質問に「まだ投げられる」と答えています。
それなのにその年のシーズン終わりに突然、現役を引退します。理由は明らかではありませんが、当時の野球機構との間に何かがあったと指摘する声もありました。
40歳、突然の事故死
この時期になるとスタルヒンは、意固地になって「無国籍」を通していました。
まだ投げられる自信を口にしていたのに、スタルヒンは引退を表明します。当然、辞めても野球の仕事に携われると思っていたでしょう。ところがどの球団からもコーチなどの声が掛からなかったのです。
がくぜんとなったのは当然でしょう。
それからわずか1年後の1957(昭和32)年1月12日、突然、悲劇が襲います。スタルヒンは乗用車を運転中、東京・世田谷区の東急玉川踏切で電車に衝突し、亡くなったのです。
40歳でした。
北海道・旭川にある「スタルヒン球場」(画像:(C)Google)
スタルヒンが少年期を送った北海道旭川市に、投球モーション姿のスタルヒン像が立っています。
地元の人たちがスタルヒンの栄光を永遠に残そうと、市営球場を「スタルヒン球場」に改めたうえ、球場入り口にこの像を立てたのです。最後まで無国籍者で通したスタルヒンでしたが、ここが一番の安らぎの地に思えてなりません。
筆者(合田一道。ノンフィクション作家)は今回のコロナ禍を通して、「プロ野球が行われることの喜び」をいつも以上に感じています。野球ができるのも、平和な日常があってこそ――。