足立区の「下町魂」いまだ健在 ビートたけしに学ぶ「忖度しない力」とは

  • ライフ
足立区の「下町魂」いまだ健在 ビートたけしに学ぶ「忖度しない力」とは

\ この記事を書いた人 /

太田省一のプロフィール画像

太田省一

社会学者、著述家

ライターページへ

お笑い界の超大物として,マルチな才能を発揮するビートたけし。そんなビートたけしは歯に衣着せぬコメンテーターとしても知られています。その“抵抗”の原点は何でしょうか。社会学者で著述家の太田省一さんが解説します。

コメント力の背後にある東京の下町生活

 お笑い芸人が情報番組やワイドショーのコメンテーターをする姿は、今やすっかりおなじみになりました。

 ではその草分けは誰か、となるとやはりビートたけしの顔が思い浮かびます。『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日系)や『新・情報7DAYS ニュースキャスター』(TBSテレビ系)などで、時事問題や最新のニュースに彼一流の言い回しでコメントをする姿はいまも健在です。

国立科学博物館で行われた「特別展ミイラ 『永遠の命』を求めて」の内覧会に出席した、スペシャルサポーターを務めるビートたけし。2019年11月撮影(画像:時事通信フォト)



 その弁舌のルーツは、生まれ育った東京の下町にあります。

 東京・足立区の決して裕福とは言えない下町一家に育ったたけしにとって、家庭は戦いの場でした。

「おいらもデビュー当時、毒舌だなんだって文句言われたけど、別に独りでに覚えたわけじゃない。ガキの頃から家の中で、親父やお袋に散々鍛えられて、自分の好みを通すには、口で相手を言い負かす以外ないとわかったからだよ」(ビートたけし『悪口の技術』新潮文庫)

 このようにして幼い頃からたけしは、理屈ではない実践的な言葉を身に着けていきました。少し大げさに言えば、言葉こそが彼にとって生き抜いていくための術だったのです。1947年生まれの団塊の世代で、同年代の子どもが多く競争が激しかったことも、サバイバル意識を培ったかもしれません。

勉強家としての側面も

 一方で彼は、勉強家としても有名です。

 現在特番として放送されている『平成教育委員会』(フジテレビ系)も、1986年に自身が起こした「フライデー襲撃事件」の謹慎中に、暇を持て余したたけしが小中学生用のドリルを解くことにハマり、これを大人にやらせてみたらと思いついたのが番組誕生のきっかけでした。

『平成教育委員会』の番組内での様子(画像:フジテレビ)

 その点についても、下町での幼い頃、特に母親・さきとの関係にルーツがあると言えるでしょう。

母親がそそいだ教育熱

 さきは、子どもの教育にとても熱心でした。時代は高度経済成長期。これからは専門職が重宝され、学歴が物を言うとさきは考えたのです。父親・菊次郎が酔っ払って帰ってくると、さきはたけしの兄たちを外へ連れ出し、自分は自転車のライトのようなもので本を照らしながら街灯の下で勉強させたと言います。

ビートたけしと母親・さきとの生活を描いた『菊次郎とさき』(画像:新潮社)



 そのなかで末っ子のたけしは、さきの手を焼かせました。

 当時の男の子がみなそうだったように、小学生のたけしは野球に夢中になりました。しかし教育熱心なさきは、野球をすることを厳しく禁じました。するとたけしも対抗して、グローブを家の庭の土中に埋めて隠しました。

 ところが、ある日たけしが野球をしようと掘り起こしてみると、そこにはグローブの代わりにさきが埋めた参考書が入っていました。

 ただ学校の成績も優秀だったたけしは、さきの希望通り大学に進学します。入学したのは、明治大学工学部でした。

学生運動に感じた違和感と欺瞞

 しかしそこでたけしの人生は大きく変わります。彼は大学になじむことができず、次第に大学から足が遠のいていきました。そして通学途中にあった新宿の街に入り浸るようになります。

 1960年代後半の当時、世界的な反体制運動の一環として学生運動が盛んになっていました。とりわけ新宿は、そうした若者の集まる代表的な街になっていました。

 そんな時代のなかでたけしも学生運動に参加したこともありましたが、そこまで熱心になることはありませんでした。

昔ながらの喫茶店のイメージ(画像:写真AC)

 また新宿のジャズ喫茶では、学生たちがマルクスやレーニン、サルトルといった名前を口にしながらいつも議論を交わしていました。たけしもそれに加わろうとしてみましたが、それにもやはりなじめませんでした。

 自分が目にする同年代の若者たちの姿に、たけしはどこかうそくささを感じていたのです。

最後に行きついた浅草の地

 例えば、当時新宿には反体制的気分のなか、定職にも就かずにぶらぶら過ごすフーテンが数多くたむろしていました。たけしもそのひとりでした。

 ところが、ある日たけしが知り合いのフーテンの後をつけてみると、その男は田園調布で降りて立派な家に入っていきました。フーテンは格好だけのものにすぎなかったのです。そうした人びとは、時期が来ればさっさと普通の会社に就職していきました。

 結局、大学だけでなく、同年代の若者たちの輪からも外れていったたけしが、最後に行くことを選んだのが浅草でした。

にぎわいを見せる浅草のホッピー通り(画像:写真AC)



 近年は浅草も多くの訪日観光客などでにぎわいを取り戻していますが、1970年代前半の当時はそうではありませんでした。かつて東京屈指の繁華街だった面影はなく、むしろ時代の流れについていけず行き場を失った人びとが行き着くような街になっていました。

 その浅草の地で、たけしは芸人修業を始めます。

 師匠の深見千三郎(せんざぶろう)とともに、ストリップ劇場・フランス座の幕あいで演じるコントが出発点でした。その後、兼子きよしと漫才コンビを組み、ツービートを結成。「面白い」と徐々に評判を呼ぶようになりました。

守り続けた「子ども目線」

 1980年代初頭の漫才ブームで注目された「赤信号みんなで渡ればこわくない」のような毒のある芸風は、この浅草時代にはすでに確立されていたようです。

 もっと言うなら、そうした大人の欺瞞(ぎまん)を鋭く指摘する子どものような目線は、足立区にいた幼少期から変わっていないのでしょう。

子どものような純粋な感性を保ち続けたビートたけし(画像:写真AC)

 たけしのコメントの真骨頂は、専門家であれ政治家であれ、その言葉をうのみにしないことではないかと思います。親がそう言うから、とか、周りの同年代の人間がみなそうしているから、というだけでは従ってこなかった彼の生きかたが、そこにも一貫しています。

 日本社会で、空気に流されずにいることは簡単なことではありません。そのなかでビートたけしは、孤立することもいとわず発言し続けているように見えます。そこに感じる覚悟のすごみが、自然と彼の言葉に耳を傾けさせるのではないでしょうか。

関連記事