閲覧注意の血みどろ絵 若者たちはなぜ最後の浮世絵師「月岡芳年」に引かれるのか

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閲覧注意の血みどろ絵 若者たちはなぜ最後の浮世絵師「月岡芳年」に引かれるのか

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松崎未來

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若い世代を中心に静かなブームとなっている浮世絵師・月岡芳年。その魅力と背景に込められたメッセージ性について、ライターの松崎未來さんが解説します。

延期となった出品作で「#おうちで浮世絵」

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、現在休館中の太田記念美術館(渋谷区神宮前)。浮世絵専門の美術館である同館では2020年4~5月の2か月にわたり、浮世絵の企画展「月岡芳年(よしとし) 血と妖艶」を開催予定でした。

 企画展のメインビジュアルに使用されている作品には、血まみれの刀を手に、天の月を仰ぎ見る男の姿があります。ちょっと物騒な浮世絵ですよね。月岡芳年という名前を初めて聞かれる方も少なくないのでは。

月岡芳年の作品。左から「風俗三十二相 いたさう」、「英名二十八衆句 因果小僧六之助」(画像:太田記念美術館蔵)



 しかし近年、若い世代を中心に静かな芳年ブームが続いており、延期となってしまった同展の再開を心待ちにしているファンも非常に多いのです。芳年とは何者なのでしょうか。ここではひと足早く、浮世絵師・月岡芳年の生涯と出品予定作の一部をご紹介します。

明治を生きた「最後の浮世絵師」

 月岡芳年は、幕末から明治時代前半にかけて活躍した浮世絵師です。生まれたのは1839(天保10)年。15歳のとき、黒船が浦賀に来航。30歳で明治維新を迎えました。つまり前半生を江戸時代に、後半生を明治時代に生きた人物です。

月岡芳年。出典『浮世絵大家集成.続第一巻』より(画像:大鳳閣書房)

 明治新政府によって欧化政策が押し進められ、浮世絵を筆頭に、さまざまな江戸の文化が失われていく中、芳年は12歳で浮世絵師・歌川国芳(くによし)に弟子入りしてから、1892(明治25)年に54歳で亡くなるまで、終生「浮世絵師」として筆をふるい続けました。

 動乱の時代に生きた、この「最後の浮世絵師」は、何を見、何を描いてきたのでしょうか。そしてなぜ今、彼の作品が人の心をつかむのでしょうか。

「血みどろ絵」を生んだ幕末の社会不安

 芳年によって確立されたとも言える浮世絵のジャンルに「血みどろ絵」があります。「血みどろ絵」とは血が飛散する残虐な殺りく、あるいはそうした事件が起きたことを暗示させる血まみれの人物(死体)を描いた作品を指します。

 天下太平の世が長く続いた江戸時代、大衆の娯楽であった浮世絵版画の題材に、血なまぐさい描写はほぼ取り上げられてきませんでした。しかし幕末には、過激で扇情的な題材がたびたび取り上げられるようになります。

 ここで一点注意しておきたいのは、浮世絵版画は量産された商品であり、浮世絵師は職業画家だということです。浮世絵師はおおむね依頼を受けて絵を描き、激しい販売競争の中を生き残るために画技を磨きました。

「血みどろ絵」もまた、単に芳年個人の嗜好(しこう)性から生まれたものではなく、一定の需要があり、市場が見込まれたからこそ制作されたものなのです。

競争により過激化したスプラッタ表現

 芳年の「血みどろ絵」の代表的な作例に、兄弟子の落合芳幾(よしいく)と14図ずつ競作した「英名二十八衆句(えいめいにじゅうはっしゅうく)」のシリーズがあります。

 1866(慶応2)年に刊行された本シリーズは、ふたりの師である国芳の作品が下敷きになっていると考えられています。しかし芳年の作品は、女性をつるし斬りにしたり、顔面の皮を剥ぎ取ったりと、師や兄弟子の描写をはるかにしのぎ、容赦なく凄惨(せいさん)です。

月岡芳年の作品。左から「魁題百撰相 阪井久蔵」、「英名二十八衆句 稲田九蔵新助」(画像:太田記念美術館蔵、個人蔵)



 当時の浮世絵界で着実に頭角を現してきていた28歳の芳年が、かつて師が描いた題材を、兄弟子と競作するという機会を得て、いかに奮起し、独自性を追究したかは想像に難くありません。

 その後、上野戦争(上野寛永寺を中心とした彰義隊と新政府軍の衝突)での体験をもとにしたと言われる「魁題百撰相(かいだいひゃくせんそう)」のシリーズでも、芳年は血まみれの勇者たちを描き、話題をさらいました。

時代を象徴する明治の赤

 芳年の「血みどろ絵」がもてはやされた背景として、他にも当時の浮世絵版画の素材と役割の変化について挙げておきたいと思います。

 幕末には、海外から輸入された安価な絵の具が浮世絵の制作に用いられるようになります。そのひとつがアニリン染料の赤色。鮮烈な赤色は、やがて文明開化を象徴する色として、過剰なまでに浮世絵版画の中に用いられるようになります。

 芳年の「血みどろ絵」の血の表現に用いられている絵の具が、必ずしもすべて輸入絵の具であったというわけではありませんが、鮮血の赤を表現し得る絵の具の登場は、人々に新時代の表現としての「血みどろ絵」を、印象づけたことでしょう。

ニュース + イラストの「錦絵新聞」登場

 そしてまた浮世絵版画そのものの役割も、時代とともに変わってきました。時代が降るにつれ、浮世絵は単なる賞玩の対象ではなく、報道メディアとしての役割を担い始めます。

月岡芳年の作品。左から「近世人物誌 近衛家の老女村岡」、「東錦浮世稿談 向疵与三」(画像:個人蔵)



 明治初期に登場する「錦絵新聞」は、江戸時代に進化した浮世絵版画の量産・流通システムのひとつの成果であり、時事性の高いトピックスを文章とフルカラーのイラストで伝えました。

 マスメディアがいつの時代もそうであるように、この錦絵新聞の格好の題材となったのは、怪異現象や刃傷沙汰。芳年の「血みどろ絵」は、こうした錦絵新聞を舞台にも展開することになります。

 こうして見てみると、「血みどろ絵」は幕末明治の動乱期に生まれるべくして生まれ、当時の社会が、芳年の「血みどろ絵」を過激なものにエスカレートさせていったと言えるでしょう。

三島由紀夫が愛した芳年

 芳年の存在は没後しばらく歴史上から忘れ去られていましたが、昭和の文豪・三島由紀夫(1925-70)が芳年の「血みどろ絵」に言及したのを契機に、戦後再び注目され始めます。

月岡芳年の作品。左から「風俗三十二相 あつさう」、「英名二十八衆句 福岡貢」(画像:太田記念美術館蔵)



 さらに1990年代には、日本よりも先に海外で大規模な回顧展が開催されました。その影響は、映画「オーシャンズ11」(2001年)や「ラストサムライ」(2003年)の劇中美術の中に、芳年作品が登場していることを見ても明らかでしょう。

 そして日本でもこの10年ほど関連書籍の刊行が相次ぎ、2016年末から18年の夏にかけて、全国6会場を巡回する回顧展も開催されました。筆者が訪れた東京会場には、展示作品を食い入るように見つめる若者たちの姿が。

芳年が生きた時代と現代の社会の類似

 芳年はただ「血みどろ絵」ばかりを描いていたわけではありません。しかし彼のたぐいまれなる洞察力と描画力は、「血みどろ絵」において、極限状態に追い込まれた人間の、むき出しの本性や悲しき尊厳の中に、見事に発揮されています。

 芳年の「血みどろ絵」の成立が、当時の社会情勢に大きく起因しているということを踏まえれば、21世紀の私たちが芳年の作品に魅了される理由も、ひとつには生きる時代の社会情勢の類似を挙げることができるでしょう。

 大震災にパンデミック(世界的大流行)、長引く不況、そして何よりインターネットの普及によって情報のあり方が劇的に変わった現代の世相は、幕末明治期のそれと相通じるものがあると言えます。

近代社会の生きづらさの中で

 記録によれば、1872(明治5)年、芳年は「強度の神経衰弱に祟られ」たとあり、翌年にかけて制作量が大きく落ち込みます。詳細は分かりませんが、34歳という、絵師として脂の乗った時期に、芳年は精神的な理由から、筆を執ることができなかったのです。

 そして53歳のとき、芳年は再び精神を病み、巣鴨病院(現・松沢病院)に入院(のちに小松川逆井脳病院へ転院)。翌春に退院したものの、半月ほどたった6月9日、本所の自宅で亡くなりました。

 過去帳に記された死因は「鬱憂狂」。これは現代のうつ病に相当すると考えられています。晩年の作品に見られる江戸への回帰志向を見るにつけ、人情家で凝り症だった芳年にとって、欧米列強にならわんとする明治の社会が、いかに生きづらいものであったかが察せられます。

妖怪や幽霊は、病める神経の産物か?

 明治時代、人々は西欧からもたらされた合理主義や科学を礼賛し、「神経」が流行語になり「神経衰弱」などの言葉が盛んに用いられます。芳年は人生のうちで、何度か幽霊を目撃したことを語っていますが、当時、妖怪や幽霊といった存在も、神経の病によるものとみなされました。

月岡芳年の作品。左から「新形三十六怪撰 蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図」、「月百姿吼○(口へんに歳の旧字)」(画像:太田記念美術館蔵)



 清姫や羅城門の鬼、番町皿屋敷のお菊など、有名な妖怪や幽霊を描いた芳年の生涯最後の浮世絵シリーズのタイトルは「新形三十六怪撰(しんけいさんじゅうろっかいせん)」。

 芳年と同い年の落語家・三遊亭円朝が創作した怪談噺(ばなし)のタイトルは「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」。いずれも流行語の「神経」にかけたものです。

 ふたりはおのおのの作品を通じて、文明開化の世に問いかけたのでしょう。古来語り継がれてきた妖怪や幽霊は、果たして本当に病める神経の産物なのか、と。

文明の光が照らし出す闇

 明治という時代は、かつて現実世界に隣り合うように存在していた闇の世界を、ガス灯の光で明るく照らし出し、妖怪や幽霊といった異界の住人たちを、人間の内なる病(やみ)の中に追いやってしまったのかも知れません。

 社会の常識や基準から逸脱する異界の住人たちは、時に私たち人間の、どうにもならない性(さが)や、消化しきれない感情の受け皿ともなってくれます。

 理屈で説明できない事象の原因を、すべて人間の身体の内側にある不調や不具合に結びつける近代社会に、おそらく芳年だけでなく、多くの人が窮屈さを感じていたはずです。

月岡芳年の作品。「英名二十八衆句 因果小僧六之助(部分)」(画像:太田記念美術館蔵)



 最後に改めて、芳年の作品を見てみてください。芳年の「血みどろ絵」には、窮地に追い詰められた人間の、弱さと強さの両極が描かれています。

 数多くの死を描きながら、不器用なまでに、人間の生に向き合った芳年。時代の奔流にあらがい続けた彼の作品に漂う悲愴感こそ、先行き不透明な時代を生きる私たちを、強く魅了するのではないでしょうか。

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