京成・JCT・荒川河川敷に包まれながら未来を夢想――葛飾区「堀切」で過ごすぜいたくな時間とは【連載】東京下町ベースキャンプ(3)
かつて江戸近郊の農村部だった東京東部の「下町」。そんな同エリアを、ブログ「限界ニュータウン探訪記」管理人の吉川祐介さんは新たな「拠点」と位置付け、再解釈を試みています。「堀切ジャンクション」で有名な堀切 京成本線の堀切菖蒲(しょうぶ)園駅は、前回紹介した京成押上線「四ツ木駅」を擁する葛飾区四つ木に隣接した、堀切にあります。 平和橋通りの歩道橋上から望む京成本線。写真中央奥が堀切菖蒲園駅(画像:吉川祐介) 駅名の由来である区営植物園「堀切菖蒲園」(葛飾区堀切)は、駅から徒歩15分ほどの少し離れた立地です。堀切という地名は首都高速中央環状線「堀切ジャンクション」が渋滞の名所としても知られているため、知名度は高いと言えるでしょう。 なお、東武伊勢崎線にも「堀切駅」という小さな駅がありますが、これは荒川対岸の足立区の千住曙町に位置し、堀切駅から葛飾区の堀切へ向かうには荒川を渡る必要があります。 約40年間で人口が45倍になった過去も「堀切」とは、一般的には戦国時代の山城における防御施設(空堀)を指す名称で、現在全国各地に残されている「堀切」の地名を持つ地域もその多くが丘陵地帯です。 荒川の後背湿地である葛飾区の「堀切」には縁のあるものではなく由来は不明ですが、少ないながらも葛飾と同様、河川付近の低地に「堀切」の地名が採用されている地域も存在するので、古来においては空堀以外の別の意味も持ち合わせていたものかもしれません。 綾瀬川に面した堀切の町。山城を連想させる地理条件ではなく、その名前の由来は不明(画像:吉川祐介) 葛飾区の堀切もまた、四つ木同様、関東大震災(1923年)の発生後から高度成長期の時代にかけて、激しい市街化と人口流入に見舞われた地域のひとつです。 1920(大正9)年にはわずか1182人だった堀切の人口は、43年後の1963(昭和38)年には、45倍の5万3565人にまで膨れ上がります。 隣接する四つ木をはるかに上回る人口増加ですが、古くからの繁華街である上野を終着駅とした京成本線の方が、より求心力が高かったためと考えられます。なお京成押上線が現在の都営浅草線との相互乗り入れを開始したのは、1960年のことでした。 裏路地にも見られる商店の跡裏路地にも見られる商店の跡 人口の流入に伴い、堀切の農地も次々と宅地や工場用地に転化されていきました。 1941(昭和16)年に操業を開始し、現在は他都市へ主要な生産拠点を移している「ミヨシ油脂株式会社」の東京工場も、高度成長期はこの堀切の地に広大な工場を構え操業を続けていました。 その急激な都市化の弊害として、都市計画が追い付かず、複雑な街路のまま市街化が進んでしまった点も四つ木と同様ですが、駅周辺の町並みは四つ木と堀切ではかなり異なります。 1944年11月に撮影された堀切周辺の上空写真(赤枠内が堀切菖蒲園駅)。農道が複雑に入り組んだ田畑が、そのまま宅地に転用されている模様が見て取れる(画像:国土地理院) 堀切菖蒲園駅周辺には、 ・堀切中央商店街 ・堀切クローバー商店街 ・ラッキー通り商店街 ・堀切一番街商店街 ・堀切菖蒲園通り商和会 と、五つの商店街が存在し、一般住宅や集合住宅との混在が進んでいる所もありますが。 また堀切菖蒲園駅をまたぐように交差する平和橋通り、川の手通り沿いにも商業施設が軒を連ね、小規模な駅が多い京成線の中ではにぎやかな駅のひとつで、日常生活において不便な面は何もありません。賃料相場は四つ木とほとんど変わらないのも魅力です。 かつては、駅から堀切菖蒲園駅までの道にも商店が軒を連ねていたのでしょうか、今では、菖蒲の開花シーズンを除けば、人の姿も多くない裏路地にも商店の跡が見られます。 街路は複雑に入り組んではいますが、道幅は四つ木の町と比較すると、車両の通行にも難がない程度で若干広めの印象を受けます。そのためか、堀切は住宅街の奥でもコインパーキングの看板を所々で見かけます。 荒川東部の住宅街における標準的な料金水準で、駅徒歩圏内である堀切の利便性や立地を考えるとリーズナブルな価格帯で、自動車を活用する人にとっても抵抗なく利用できます。 外せない「新荒川葛西堤防線」の存在外せない「新荒川葛西堤防線」の存在 自動車と言えば、荒川沿岸の地域の道路事情において触れておきたいのが、首都高速中央環状線の下、綾瀬川に沿って敷かれている都道450号線「新荒川葛西堤防線」の存在です。 都道450号新荒川葛西堤防線。小菅から葛西までの約12kmを結ぶ(画像:吉川祐介) 河川沿い、高速道路沿いに一般道路が並走している光景は、23区に限らず日本各地の都市で見られる光景ですが、この川沿いの堤防線を利用することによって、自動車やオートバイの利便性がより生かされるようになります。 都道450号線は幅員が狭く、随所で複雑な線形となっていて、やや走りにくい箇所があります。ただ地形の制約上、交差点は少ないため、23区の都道としては信号も少なく、小菅から葛西まで20~30分程度で結ぶことができる便利な道路です。 筆者は23区のタクシードライバーの仕事に従事していた経験がありますが、この堤防線は錦糸町からの酔客の送迎のため頻繁に利用した道路のひとつです。 荒川とともにある葛飾の暮らし では、自転車での利用はどうでしょうか。 率直に言って、都道450号線は歩行や自転車利用に適した道路とはとても言えません。しかし、荒川の河川敷には歩行者・自転車のみ利用可能な河川管理道路が存在します。 歩行者・自転車が利用可能な荒川の河川管理道路(画像:吉川祐介) いずれにしても歩行者に配慮した安全な走行が求められますが、交通量も激しい、道路が入り組んだ下町の奥深い立地でありながら、人混みや渋滞を回避し、容易に他地域へと足を向けることができるのが、この荒川沿いのエリアの代えがたい魅力です。 2020年7月、九州地方を襲った記録的な豪雨による河川の氾濫で、流域は甚大な被害に見舞われました。無数の水害の歴史を持つ葛飾区にとってひとごとではありません。 しかし、平時の荒川河川敷は、地域住民の憩いの場として親しまれ、河川の特性を生かした便利な道路が、住民の重要な生活道路として機能しています。過去の幾度もの災害時には、住民に恐ろしい牙をむけてきた荒川ですが、それでも今なお葛飾の暮らしは、この荒川とともにあるのです。 天気の良い夕暮れ時などに、対岸に沈む夕日がある広い空へ向かって延びる堀切ジャンクションを眺めて、次の行き先や道筋を夢想する、そんなぜいたくな時間も提供してくれるのが、荒川沿いの暮らしでもあります。
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