日本近代美術の父・岡倉天心と4月開催「ボストン美術館展」を結ぶ知られざる深い関係とは

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日本近代美術の父・岡倉天心と4月開催「ボストン美術館展」を結ぶ知られざる深い関係とは

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小川裕夫

フリーランスライター

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2020年4月16日から東京都美術館で開催される「ボストン美術館展 芸術×力」。そんなボストン美術館に深く関わった岡倉天心について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

ボストン美術館は「アートの聖地」

 東京都美術館(台東区上野公園)で2020年4月16日(木)から、「ボストン美術館展 芸術×力」が開催されます。

 ボストン美術館は米マサチューセッツ州ボストンにある美術館で、その規模は世界有数とも言われます。それだけに収蔵品・展示品は多く、芸術家や愛好家の間ではアートの聖地のような場所として認識されています。

日本の美術振興のために尽力した岡倉天心(画像:天心記念五浦美術館)



 しかし、ニューヨークやワシントンDC、ロサンゼルスといった日本人でも広く知られている都市と比べると、ボストンはそれほど日本人にはなじみは深くありません。

 松坂大輔投手がメジャーリーグ移籍で入団したボストンレッドソックスのホームタウン、もしくは超難関大学として知られるハーバード大学がある都市。そのぐらいの認識でしょう。

実は日本と深い関係にあるボストン

 そんなボストンに立地するボストン美術館ですが、実は日本とは深い関係にあります。

 ボストン美術館と日本とを深く結びつけたのは、美術評論家の岡倉天心です。岡倉は東京帝国大学を卒業後に文部省(現・文部科学省)に入省。音楽を担当する部署に配属されました。

ボストン美術館の外観(画像:(C)Google)

 文部省で役人として勤務していた岡倉ですが、お雇い外国人として来日していたアーネスト・フェノロサとの出会いが大きく人生を変えます。

 哲学を専攻していたフェノロサは、お雇い外国人として来日して以降、日本美術の発展に奔走しました。

 助手としてフェノロサをサポートしていた岡倉もフェノロサから大きな影響を受け、美術界を振興させるために駆け回ります。そして、1889(明治22)年に東京美術学校(現・東京芸術大学)を開校させたのです。

絶えない日本美術界新興への思い

 文人である岡倉は、自身が美術作品を手掛ける美術家ではありませんでした。しかし、日本の美術振興のために初代校長に就任。以降、美術家などを養成するとともに美術品の収集などにも取り組みました。

 しかし、岡倉は女性問題を起こして辞任に追い込まれます。校長職を退いた岡倉でしたが、日本美術界を振興するという執念は絶やしませんでした。

1997年、茨城県の五浦の地に開館した天心記念五浦美術館(画像:小川裕夫)



 学校から近い谷中に転居し、そこで美術家の同志たちと日本美術院を旗揚げしたのです。日本美術院を設立した岡倉は、立場を変えて再び日本美術界を盛り上げることに取り組みました。

 岡倉は日本美術に並々ならぬ情熱を傾けていましたが、美術で生計を立てることは容易ではありません。すぐに日本美術院は資金難に陥ってしまいます。

日本の美意識や文化紹介のためにを作品を発表

 そうした危機に直面した岡倉は、茨城県の五浦海岸(いづらかいがん。現・北茨城市)に新天地を求めて転居。弟子たちも岡倉に付き従い、多くの画家・彫刻家が茨城県の五浦海岸で創作活動に打ち込みました。こうした岡倉の行動と情熱によって、日本美術界は新しい可能性を開いていきます。

 一方、フェノロサやボストン出身の美術研究家であるウィリアム・スタージス・ビゲローの紹介を受け、岡倉はボストン美術館の中国・日本美術部職員として勤務することになります。そのため、岡倉は日本とボストンを往復する日々がつづき、日本美術院の活動は疎遠になっていきました。

天心記念五浦美術館の場所(画像:(C)Google)

 しかし、岡倉は決して日本の美術界を振興するという思いを忘れませんでした。1903(明治36)年、アメリカで日本美術が高いレベルであることを広めるために、日本人の美意識を紹介する『茶の本』を英語で刊行します。岡倉は生粋の日本人ですが、『茶の本』は海外に日本人の美意識や文化を紹介することが目的だったため、同書は英語で執筆されました。

出版後、すぐにベストセラーに

『茶の本』は、出版してすぐにベストセラーになります。まずアメリカで大反響を呼んだ『茶の本』は、その後にヨーロッパ各国でも翻訳・出版されました。

 岡倉が存命時、『茶の本』は邦訳が出版されることはありませんでしたが、没後の1929(昭和4)年に日本語版がようやく出版されています

 明治期、日本は「西洋に追いつけ追い越せ」をスローガンに、富国強兵や殖産興業にまい進しました。そのため、明治期は政府主導で軍事力強化・産業振興が進められました。

1906年に刊行された『茶の本』(画像:岩波書店)



 岡倉が夢見た「西洋に追いつけ追い越せ」は、そうした軍事や産業とは無縁な美術の世界での話でしたが、岡倉の尽力によって日本の美術界も西洋に肩を並べることがかなったのです。

 岡倉が世界に日本美術を発信したのは、ボストン美術館在職時でした。日本とボストン美術館には、そんな奇妙な縁があるのです。

今こそ振り返りたい岡倉の功績

 今回のボストン美術館展は、あくまでもボストン美術館に所蔵された作品を展示するものであり、岡倉の活躍を紹介するものではありません。

 しかし、ボストン美術館は多くの日本画を所蔵しており、今回のボストン美術館展でも多くの日本画が展示されます。

 岡倉の奮闘がなければ、世界の美術界が日本美術に見向きすることはなかったでしょう。それだけに、岡倉の功績には大きなものがあります。

東京都台東区の旧岡倉邸跡は公園として整備され、現在は地域住民の憩いの場になっている(画像:小川裕夫)

 今回のボストン美術館展は、上野で開催されます(上野での会期終了後、福岡と神戸でも開催予定)。

 その近くには、岡倉が日本美術院を立ち上げた旧居跡が岡倉天心記念公園(台東区谷中)として整備されています。美術を鑑賞した後、岡倉の活躍に思いをはせながら、上野から谷中までタイムスリップ散歩を楽しんでみるのもいいかもしれません。

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