交通事故から子どもたちを守ろう――「府中市交通遊園」から見る、交通公園に込められた願いとは

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交通事故から子どもたちを守ろう――「府中市交通遊園」から見る、交通公園に込められた願いとは

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広岡祐

文筆家、社会科教師

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府中市にある1969年にオープンした府中市交通遊園について、文筆家の広岡祐さんが歴史をひも解き、解説します。

1万2000平方メートルに道路と歩道が配置

 府中市郷土の森公園。東京競馬場に近接する多摩川沿いの広大な敷地に、体育館・プール・博物館などの公共施設が集まっています。かつては市民健康センターの名で親しまれてきたこの場所で、もっとも歴史ある施設のひとつが1969(昭和44)年にオープンした府中市交通遊園(府中市矢崎町)です。

 1万2000平方メートルにおよぶ敷地の中には道路と歩道が配置され、交差点や横断歩道には、小ぶりながらもしっかりと動作する信号機が備わっています。

府中市交通遊園。ミニチュアの街路に子どもたちのあやつるゴーカートが走る(画像:広岡祐)



 かつて日本各地にみられた交通公園は、子どもたちが遊びながら交通ルールを学ぶ場として設けられたものでした。今回は、戦後のモータリゼーション発展とともに全国に誕生した交通公園の歴史をひもといてみましょう。

交通戦争と子どもたち

 1960年代後半から70年代初頭にかけて、全国で交通事故が急増したことがありました。事故の犠牲者数は年間1万人を超え、大きな社会問題に。1980年代半ばにもう一度交通事故の多発期があったため、この最初の時期はのちに「第1次交通戦争」とよばれることになりました。

 第1次交通戦争は歩行者、中でも未成年者・児童の被害が多いことが特徴でした。交通安全教育が行きわたっていなかったことにくわえて、子どもたちを守る信号機や歩道橋などの設備が遅れていたのでした。

 高度経済成長期の終盤、街から空き地や原っぱが減少していく中で、道路も子どもたちの遊び場だったことが事故が増える原因のひとつだったのでしょう。

 1965(昭和40)年の全国の自動車保有台数は約698万台でしたが、5年後の1970年には実に1652万台。道路を行きかう車が激増していたのです。痛ましい事故の犠牲を少しでも減らすことが行政の課題となりました。

交通公園の誕生

 児童公園をかねた交通公園の構想がスタートしたのが1962(昭和37)年のこと。当時の建設省主導のもとで進められたプロジェクトでした。

 横断歩道や交通標識を備えた街路を設け、自転車やゴーカートなどの遊具を備えて、交通安全の指導を目的とする教育施設で、1963(昭和38)年に国内初の交通公園・西武庫公園(兵庫県尼崎市)が開設されます。

子どもの背たけにあわせた信号機は交通公園のシンボル(画像:広岡祐)



 東京都内で最初にオープンしたのが、1964(昭和39)年開園の戸山交通公園(新宿区西大久保)でした。市街地、工業地域などに区分けされた街路を、ゴーカートや持ち込んだ自転車で走行し、指導員のアドバイスを受けて交通ルールを学ぶことができました。

 残念ながらこの交通公園はのちに廃止となりましたが、現在も戸山公園の街路にその面影を残しています。

府中市交通遊園の楽しみ方

 全盛期より数を減らしたものの、東京都内には大小の交通公園が健在です。府中市交通遊園はそのなかでも規模の大きい施設のひとつです。

 無料の足こぎゴーカートはいつでも子どもたちが長い列がつくっています。コースには横断歩道と押しボタン式の信号が各所に配置され、来園者は大人も子どもも、しっかり信号を守って横断歩道を渡っているのが印象的です。

大人気のゴーカート(画像:広岡祐)

 エンジンつきのゴーカートは、開園当初からの自慢の設備です。コース全長は330mで、約1分30秒のチャレンジ。1周100円、3周まで選ぶことができます。

 近年は静かな電動のカートも登場し、エンジン音が苦手な小さい子どもがお父さんやお母さんと楽しむ姿が見られます。ベテラン職員たちも丁寧に誘導してくれます。かつては周回するゴーカートに、チェッカーフラッグを振ってくれるのが楽しかったです。

 園内の遊具も子どもたちに人気です。どれもかなり年季が入っていますが、昨今の小公園では見ることのできない大がかりなジャングルジムや、人造石研ぎ出しのダイナミックな滑り台などは昭和の面影を残すもので、なかなか見ごたえがあります。

遊園内に展示された貴重な鉄道車両

 府中市交通遊園のもうひとつの見どころが、園内に保存されている鉄道車両です。街路の西側には、屋根の下に2両の機関車が展示されています。

 まずは有名なD51。デゴイチの愛称で知られるSLで、この296号機は1939(昭和14)年生まれで、戦中から戦後にかけて秋田・新潟・長野県で活躍し、最後は奥羽本線の大舘~青森間で力走、1971(昭和46)年に引退した車両です。

D51296号機。D51は1000両以上が製造された日本を代表する貨物用蒸気機関車(画像:広岡祐)



 国鉄大宮工場(現・JR東日本大宮総合車両センター)に保管されていたものが府中市に貸与されました。現役中の走行距離は242万km、地球60周分におよびます。府中市交通遊園には、トレーラーとトラック5台に分解して運び込んだといいます。

実際に使われた機関車も展示

 デゴイチの後ろにいるEB10形は小型の電気機関車です。国鉄唯一のB形(車輪が2軸)の機関車で、東北本線「王子駅」近くの貨物線で貨車の入れ替え用に使用されました。

凸型のスタイルが特徴的なEB10形。1972(昭和47)年まで活躍していた(画像:広岡祐)

 この車両は1927(昭和2)年に製造された蓄電池式の機関車を改造したものです。バッテリーで動くミニ機関車は遊園地などでも見ることができますが、国鉄のレール上を走った機関車だけあって、小形機といっても近くで見るとかなりの大きさに驚きます。

 管理棟近く、木立の中にたたずんでいるのが東京都電6000形6191号機。1950(昭和25)年製で、1981(昭和56)年に東京都交通局から払い下げを受けました。都電荒川線(さくらトラム)で活躍した車両です。6000形は1947年から6年間で290両が製造された、戦後の都電を代表する車両のひとつです。

子どもたちを見守り続ける府中市交通遊園

 近年、公共交通としての路面電車が見直され、各地で近代的な車両の活躍を見ることができるようになりました。

 昔なつかしいひとつ目ライトのチンチン電車が身近に見られる場所は少なくなってしまいました。ボランティアの人たちの長い努力で、失われた部品を調達して美しい姿を取り戻している点にも注目してください。

ひとつ目スタイルが懐かしい東京都電6000形(画像:広岡祐)



 これらの鉄道車両のほか、地元で活躍した京王バス、消防団の小型ポンプ車なども園内に保存されています。大小2台のバスは実際に乗り込み、運転席に座ることもできます。

 多くの人々によって守られてきた交通公園。昭和の子どもにとっては、ちょっとしたテーマパークのような存在でした。平成から令和へ、悲惨な交通事故は幸いに減りつづけていますが、その役割がなくなることはないでしょう。

 開園から半世紀をへた府中市交通遊園は、21世紀の今も子どもたちの歓声であふれています。

 アクセスは、JR府中本町駅から徒歩18分。利用時間は10時から16時30分まで。休園日は毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)と年末年始です。

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