懐かしき「私をスキーに連れてって」の思い出
この記事を書くために、映画「私をスキーに連れてって」を久しぶりに鑑賞したのですが、なんて楽しい作品なのでしょうか――。
華やかだったバブル時代を象徴するような原田知世主演の映画で、公開されたのは1987(昭和62)年11月。
原田の相手役の商社マンを演じる三上博史は、会社が終わってから長野県の奥志賀まで車でスキーへ。仲間との通信手段がアマチュア無線なのは、時代を感じさせるポイントです。劇中に登場した、スキー場でも使えるキヤノンの黄色い防水カメラ「AS-6」もよく売れました。
現実でまねをしていた人がいるのかはわかりませんが、劇中で原田の「バーン」と指ピストルで打つジェスチャーは、今見ると楽しすぎます。松任谷由実の歌う「恋人はサンタクロース」とともに、気持ちの沈む季節にはぜひ観賞をオススメする作品です。
さて当時、この映画のような生活を味わっている人は本当にいたのでしょうか。結局は映画で描かれた幻想ではないのでしょうか――そう思って調べてみたところ、新聞記事に興味深い記載を見つけました。
皆がお金持ちだったわけではないバブル
それは「読売新聞」1987年3月11日付夕刊の「アフター5:00」というコーナー。ここでは某大手総合商社の海外業務部に勤務するC・Oさんという22歳の女性を取材しています。
「週末はきまってスキーツアーへ。スキー歴十年、検定二級。商社対抗大会で優勝実績のあるスキー部に入り、今冬は、みつまた・かぐら、苗場、赤倉などに七回。「学生のころはウインドサーフィンにも熱中していました。春になったら人並みにテニスでも」と雪焼け顔に笑みがこぼれた」
「私をスキーに連れてって」は決してフィクションではなく、当時はそんな人がたくさんいたようです。
しかし皆が「スキーをやらなくちゃ」と思っても、財布にぎっしりとお金が詰まっていたわけではありません。バブルの時代でも貧乏な若者はいっぱいいました。そのため、若者たちの財布の厚さに併せて、スキー場へと向かうツアーには「松竹梅」がそろっていたのです。
「週刊現代」1989年1月29号「全国スキー場 お楽しみガイド決定版」では、各種のツアーやスキー場のオススメポイントを紹介しています。
そこで筆頭に上がっているのが、東京発のニセコ国際ひらふスキー場(現・ニセコマウンテンリゾート グラン・ヒラフ。北海道倶知安町)への2泊3日のツアーです。価格は、食事4食が付いて3万9700円。格安航空会社(LCC)もなく、飛行機代だけで4万円以上かかっていた時代に、この価格は破格と言ってよいでしょう。
朝に現地に着いてスキー、またバスで都内へ
もちろん、安さゆえにワケアリです。宿がなんと、4人一室のペンション。ようは寝る時は雑魚寝で、それでも北海道でスキーができるならかなりお得だったと思われます。
場所を選ばなければ、もっと安いツアーもありました。前述の記事では、神立高原(かんだつこうげん。新潟県湯沢町)への夜行車中泊日帰りのツアーバスが9300円となっています。夜行バスに揺られて、朝に現地着。スキーを楽しんで、またバスで都内へ――体力に自信のある若いときにしかできませんね。
もちろん単にスキーを楽しみたいだけなら、こんなツアーでもよかったでしょう。しかしこの時代のスキーは、単なるウインタースポーツではありません。
「スキーに行く」といって、単に滑って満足して帰るのは少数派です。真のスキーの目的とは、すでにいい感じになりかけている女性への押しの一手。あるいは、現地での出会いです。
スキー板は、出会いのための小道具でしかありません。そのためスキー場選びにあたっては、意中の女性と出掛けて関係が深まりそうか、あるいは男女の出会いが生まれそうかが重要だったのです。
年々増加していたスキー場
そんな基準で選ばれていたスキー場ですが、この状況を特段気にはしていなかったようです。なぜなら、スキー場では客の奪い合いが起こっていたからです。
この時代、スキー人口は日本人の10人にひとりのレベル。週刊誌「AERA」1989年1月17日号によると、1983(昭和58)年に548か所だったスキー場は、5年後の1988年に611か所まで増加していました。
そのため、「あそこのスキー場は出会える」と評判になるのは、スキー場としても願ったりかなったり。中でも「ナンパ天国」として知られていたのは、やはり苗場スキー場です。
スキーを口実に出会いを求めた男女
ご存じの通り、苗場プリンスホテル(新潟県湯沢町)はスキー場のみならず、プールにレストランに映画館までがある、一大レジャースポットです。
そもそもが、スキーを口実に出会いを求める男女が来る場所。それ以外になんの目的があるのか――という常識が出来上がっていたのです。
そんな苗場に負けじと「ナンパスポット」であることをアピールしていたのが、同じく湯沢町の神立です。「週刊テーミス」(現・月刊テーミス)1989年11月22号の記事では、旅行添乗員のコメントという形で、神立はスキー場来場者の約7割が女性と報じています。今となっては、真実だったかどうかはわかりません。
そしてもうひとつ脚光を浴びていたのが斑尾高原(長野県飯山市、新潟県妙高市)。ここは礼宮さま(現・秋篠宮文仁親王)と、紀子さまの出会いの舞台として話題になったスキー場でした。
冬はスキー、夏はゴルフの時代
冒頭の「私をスキーに連れてって」の白いスキーウエアは数年間にわたって流行しましたが、あれはナンパのための制服だったといえます。
しかし、スキーは冬しかできません。夏は当時、ゴルフが流行していました。
バブル初頭の1987(昭和62)年に内需拡大政策のため、総合保養地域整備法(リゾート法)によって、民間による滞在型リゾート施設の建設が促進されると、会員権が投資の対象となることもあり、ゴルフ場開発はその後急増していきました。
有名雑誌もゴルフブームを後押し
1988(昭和63)年には全国でゴルフ場の数は1563か所に達し、なおも211か所が建設中でした(2016年時点で、全国のゴルフ場の数は2343か所)。
「中日新聞」1988年5月10日付朝刊によると、競技人口は日本人の10人にひとりに達していました。そうなると、若者向け雑誌「Hanako」1989年6月29日号にはこんな記事も掲載されるようになります。
「もう他人事ではありません。アフター5にはクラブケースを小脇に抱えた女性がアチコチで……。街にはおしゃれで新しいショップがドシドシと……。ゴルフはいま都会のファッション」
女性向けに東京の街ネタを知らせる「Hanako」までもが、このような言葉で「これからはゴルフ」と言い立てたのですから、猫も杓子(しゃくし)もゴルフをしていたといえるでしょう。
この記事では、銀座・有楽町・丸の内にあるゴルフ練習場9か所を紹介。それによると、プランタン銀座(現・マロニエゲート銀座)にまでゴルフスクールがあったことが記されています。あんな銀座のど真ん中で――とは驚きです。
スキーとゴルフに求められるスキルの差
そんな当時の女性誌のゴルフ記事ですが、クラブの選び方をとても詳しく解説しているのが多い印象です。
これがスキーとの大きな違いで、コースに出ても足手まといにならないだけの最低限のスキルは求められたようです。
男性と一緒にコースを回るためには、体力も欠かせません。たとえ出会いが目当てでも、努力を強いられたのがバブル期の女性だったということでしょうか。
やはり、どの時代にも「タナボタ」はなかったようです。