【追悼】偉大なる名将・野村克也さんが生前愛した店を振り返る
2020年2月18日
知る!TOKYO2月11日に亡くなった日本野球界の重鎮・野村克也が生前行きつけにしていた都内の店などについて、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。
自分の道を究めた選手
ヤクルトスワローズや阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務めた野村克也さんの訃報が届いたのは、2020年2月11日(火)のことでした。
どうして彼は監督を退いても、「野村監督」と呼ばれるのでしょうか。それはおそらく、彼の人間的な魅力のおかげでしょう。

野村さんは南海ホークスで4番バッター・キャッチャーという重責を背負いながら、戦後初の三冠王に輝き、選手としても大きな足跡を残しました。名選手であり、名監督でもありました。
筆者(増淵敏之。法政大学大学院教授)は野球ファンの端くれなので、大きなショックを受けました。小学生の頃、筆者は東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)のファンだったのですが、友人に南海ファンがいたこともあり、野村さんの話はいつも耳にしていました。
テスト入団で契約金はなく、ましてや出身校も甲子園の常連ではありません。通算600本塁打を放った後、「王や長嶋がひまわりなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草」と表現したように、スポットライトが当たらなかった当時のパリーグで、自分の道を究めた選手でもありました。
他のチームの選手に慕われる器の広い人間
多くの関係者がマスコミを通じてお悔やみの言葉を述べていましたが、もっとも印象に残ったのはシカゴ・カブスのダルビッシュ有のコメントでした。
彼が手術後に思うようにいかなかったとき、野村さんが平成のベストナインに彼を選んだことについて感謝している旨を述べつつ、「僕が一度プレーしてみたかった監督が2人いる。そのひとりが野村さん。いつか絶対にやってみたかった」と続けました。清原和博も同じことを述べていました。

筆者は、感動を覚えずにはいられませんでした。古田敦也、田中将大など直接の教え子たちも氏に対する愛情に満ちたコメントを述べていましたが、やはり他のチームにいた選手に慕われるというのは、相当な人間の器というか、力を持った人ではないと難しいかと思います。
彼がこの世を去ってしまったのは、一野球ファンとして本当に残念でなりません。まだまだ、野球界に助言をしてほしかったです。
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