ありがとう「としまえん」 閉園検討の今こそ、振り返るべき歴史がある

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ありがとう「としまえん」 閉園検討の今こそ、振り返るべき歴史がある

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小川裕夫

フリーランスライター

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このほど閉園することが発表された遊園地「としまえん」。その知られざる歴史について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

埼玉県民も頻繁に利用する遊園地

 池袋駅から西武鉄道池袋線の電車に乗ること、約10分で練馬駅に到着します。練馬駅から分岐する豊島線(としません)は、練馬駅と豊島園駅の約1kmをつなぐ短い路線です。

 池袋駅から豊島園駅に直通する電車もあるため、遊園地「としまえん」(練馬区向山)は都心からのアクセスもよく、都民はもとより埼玉県民も頻繁に利用する遊園地として親しまれてきました。

としまえんにある日本最古のメリーゴーラウンド「カルーセルエルドラド」(画像:写真AC)



 練馬区にありながら“としま”えんを名乗っていますが、これはとしまえん一帯が豊島郡に属していた過去に由来しています。

当初は鉄道会社運営ではなかった

 子どもたちを魅了したとしまえんですが、このほど閉園することが発表されました。閉園後、遊園地跡地の一部はアメリカのエンターテインメント企業であるワーナーブラザーズが取得し、世界的に人気のあるファンタジー小説『ハリー・ポッター』の世界を再現したテーマパークが新たに再整備されることが予定されているようです。

 西武グループによって運営されてきた、としまえん。そのため、鉄道会社が遊園地へ出掛ける需要を生み出すために開園したと思われがちです。

豊島園駅の西武鉄道(画像:写真AC)

 郊外に遊園地をつくり、鉄道の利用者を増やすという私鉄のビジネスモデルは大阪を地盤とする阪急電鉄の創業者・小林一三が編み出したといわれています。西武グループであるとしまえんも、西武鉄道の乗客を掘り起こしという面があることは否めません。

 しかし、としまえんは大正期に起こった田園都市ブームに倣った遊園地として開設されています。当初のとしまえんは鉄道会社による運営ではなく、実業家が個人で興した事業だったのです。

遊園というより公園に近かった豊島園

 大正期に起きた田園都市ブームによって、大都市の郊外は住宅地として開発が進められました。その住宅地開発と同時期に、地元に根ざした実業家たちがこぞって遊園地の建設を進めています。

 1914(大正3)年、料亭経営者の平岡廣高が花月園をオープン。1922年には一帯に広大な土地を所有していた広岡幾次郎が、荒川遊園を開園させました。

西武鉄道の豊島園駅(画像:写真AC)



 花月園は現在の神奈川県横浜市、荒川遊園は現在の東京都荒川区にあたりますが、当時は横浜市、荒川区ではありませんでした。そして、豊島園は1926(大正15)年に実業家・藤田好三郎によって開業します。

 明治末から大正にかけて、家族でレジャーを楽しむというライフスタイルが社会に広まり、それを受けて実業家たちは遊園地をこぞって開業させていたのです。

 開園当時の豊島園は、「体育の奨励」と「園芸趣味の普及」を目的にしていました。当時、機械技術が未発達であることや電気の使用がまだ十分ではなかったこともあり、現在のように遊園地にアトラクションや遊具は設置されていません。

 また、高価な遊具を導入しても採算的に合わないという経営的な事情も少なからずありました。そのため、当時の遊園地はピクニック感覚で出掛けるような自然を生かした場所、今で例えるなら公園に近いレジャースポットでした。

競争激化で移った経営権

 実業家による遊園地の開園ブームが起きると、私鉄各社も追随。私鉄各社は自社の鉄道ネットワークをフル活用するべく、沿線の郊外で遊園地を次々にオープンさせました。

 自社の沿線に遊園地をオープンすれば、鉄道の収入も増え、遊園地の入園料なども得られるからです。

 そうした背景から遊園地の競争は激化し、すぐに遊園地単体で収益を増やすことは難しくなりました。

 そのため、前述した花月園は京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)、あらかわ遊園は王子電気軌道(現・東京都交通局)、豊島園は武蔵野鉄道(現・西武鉄道)に経営権が移っていきます。

1965年に世界初の「流れるプール」オープン

 1927(昭和2)年、武蔵野鉄道が豊島線を開業。これにより、豊島園までの鉄道でのアクセスが整備されます。鉄道アクセスが整備されたことと同時に、武蔵野鉄道は園内の遊具の充実を図ります。その際に目玉になったのはウオーターシュートとよばれる遊具で、そのほかにも演芸場や音楽堂などが整備されました。

 また、武蔵野鉄道は森永製菓にスポンサーとして協力を仰ぎ、入園料の割引を実施。家族で楽しめることを全面的に打ち出して、来園者を増やしました。

 戦後、としまえんは遊具を増やして人気を高めていきます。1955(昭和30)年には観覧車、1958年には世界初の屋内スキー場、1965年には世界初の流れるプールとローラーコースター「サイクロン」、1973年には波のプールといった具合です。

 特に、ローラーコースター「サイクロン」は多くの子どもを魅了することになり、としまえんの人気を不動のものにしました。

としまえんの入り口付近の様子(画像:(C)Google)



 1991(平成3)年、練馬~光が丘間で都営地下鉄12号線(現・大江戸線)が部分開業を果たします。現在、東京都心部をぐるりと回っている大江戸線ですが、このときは一部の区間が開業しただけ。東京の片隅を走るだけだったため、大きなトピックにはなりませんでした。改めて、大江戸線が注目されるのは2000年の全面開業時です。

時代といえば、それまでだが……

 バブル期、としまえんは年間400万人もの来園者を集めました。しかしピークを過ぎた近年は、入場者数が年間100万人前後まで落ち込んでいます。

 ライバルとなる大型テーマパークの台頭やレジャーの多様化といった理由もあって、としまえんは苦戦していました。それでも、2016年には開園90周年を迎えています。

 としまえんは、間もなく開園100周年を迎えるところでした。それが一転して、閉園という寂しいニュースが報道されてました。

練馬区役所展望台からとしまえん方向を望む(画像:写真AC)

 時代といえばそれまでですが、練馬区の兎月園、板橋区の遊泉園、朝霞市の朝霞テックのほか、短命に終わった練馬区の富士見台ファミリーランドといった近隣の遊園地・遊戯施設に比べて、としまえんは長きにわたって子どもたちをとりこにしてきました。それだけに、思い出もたくさん詰まっています。

 閉園を惜しむ人は少なくありません。

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