かつて水車タウンだった「目黒区」から水車が消えてしまった、マンガみたいな理由
2021年2月25日
知る!TOKYO都内でもおしゃれなイメージで知られる目黒区ですが、かつては多くの水車がある地域だったことをご存じでしょうか。その歴史について、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。
大橋ジャンクションすぐ近くの説明版
首都高速道路3号渋谷線と中央環状線を結ぶ大橋ジャンクションのすぐ近く、目黒区大橋1丁目の目黒川沿いに「水車跡」という説明板があります。説明版には次ような文章が書かれています。
「この地域は、近くを大山道(現在の玉川通り)が通り、物資の輸送に便利であり、また、三田用水、目黒川の水力にも恵まれていたので、江戸時代から明治にかけて水車が多く作られました。中でもこの近くにあった大橋の加藤水車は有名でした」
今では散歩道のあるおしゃれな川といったイメージの目黒川ですが、かつてはどぶ川。そんな目黒川に水車があったとは到底想像できません。
水車が置かれた時期は明確ではなく、『月刊めぐろ』に昭和54年から60年まで連載された、目黒区の歴史を知るための必須資料「歴史を訪ねて」でも触れられていません。
水のエネルギーを使って機械を回転させる水車は古来、世界の多くの地域で使われてきました。日本で使われ始めたのは平安時代からと言われていますが、本格的な普及が進んだのは江戸時代に入ってから。白米を食べる習慣が広がり、精米のために水車が使われるようになったためです。
また、農業生産力が向上して商品作物が作られるようになると、水車で粉をひくなど、その用途が広がりました。
水車増加の背景にあった農作物の加工販売
目黒区域で水車が多く設置されたのは、三田用水と目黒川でした。

三田用水の元となったのは、1664(寛文4)年に完成した三田上水です。現在の世田谷区北沢で玉川上水から分岐し、目黒区三田を通って白金猿町(現・高輪台)へと流れていました。後にかんがい水路になり、世田谷・渋谷・目黒・品川周辺にある14の村が管理しました。
水車の数は、農作物を加工販売して利益を得る人が増えるとともに増加します。しかし無秩序に設置された結果、流水量を勝手に調節する人が出始め、水があふれたり、よどんだりする問題が発生しました。
そして1873(明治6)年、用水を管理する人たちが水車の新設を認めないことを決めます。しかしそれでも水車の数は増えたと言いますから、農作物の加工販売は相当もうかる商売だったのでしょう。
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