史上最も有名な「仇討ち」 300年以上語り継がれる「赤穂浪士事件」を描いた『徂徠豆腐』【連載】東京すたこら落語マップ(3)
2019年12月30日
知る!TOKYO落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる話を毎回やさしく解説します。
豆腐屋と学者の、サイドストーリー
年末といえば忠臣蔵。これは、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りを行なったのが1702(元禄15)年12月14日(現在の暦では1月30日)だったことが理由です。この時期、忠臣蔵に所縁(ゆかり)のある地域では義士祭などが行われ、歌舞伎や文楽の「仮名手本忠臣蔵」のほか、浪曲、講談、落語など忠臣蔵の演目が目白押しです。

さて「忠臣蔵」といわれる一連のストーリーは、元禄の時代に実際に起きた「赤穂事件」を元に作られています。映画や芝居、講談などのほとんどのストーリーは「忠臣蔵」であり、落語も「仮名手本忠臣蔵」を題材にしたもので、赤穂事件を扱っているものはほとんどありません。
そんな中、史実・赤穂事件を扱っている数少ない噺が「徂徠豆腐(そらいどうふ)」です。
※ ※ ※
年の瀬も押し迫った頃、豆腐屋の七兵衛が芝増上寺門前の長屋を歩いていると、自分を呼ぶか細い声がする。豆腐2丁の注文を受けて、やっこに切って渡すとあっという間に平らげた。細かい金がないから払えないというのでツケにしていたが、3日めにようやくその学者は、金を持っていないことを白状する。
「学問で世の中を良くしたい」という学者に感心した七兵衛は、「出世払いだ」と夫婦でおからを届け始める。涙を流して礼を言うその学者は、長屋中から「おからの先生」と呼ばれるようになった。
そんな折、七兵衛は風邪を拗らせて寝込んでしまった。やっと起き上がれるようになり、おからの先生がひもじい思いをしているのではと心配して長屋に見に行くと、おからの先生は出て行ってしまっていた。
やがて時が経ち、七兵衛夫婦は学者のことをすっかり忘れてしまった。そんな元禄15年12月14日、赤穂浪士による吉良邸討ち入り。ついに本懐を遂げたと町中が赤穂浪士たちを讃える熱も冷めやらぬ中、豆腐屋の隣家が火事を出し、七兵衛夫婦は焼け出されてしまった。
魚藍坂にいる知り合いの薪屋に避難しているところへ、大工の政五郎が火事見舞いに来て、「さるお方から10両預かった」と七兵衛に渡し、その“さるお方”は元の場所へ新しく店を立ててくれると伝える。何のことかよくわからないまま年が明けた2月4日。赤穂浪士たちが全員切腹した。「あんな立派な赤穂浪士を死なせてしまうなんて」と人々の非難の声。
それから10日も経った頃、大工の政五郎がやってきた。芝増上寺の門前へ連れて行かれ、見ると焼けたはずの店が建っている。そこに立派なお武家様がやってきた。「豆腐屋さん」と呼ぶ声を聞いて「おからの先生だ」と驚いた七兵衛に、あの後増上寺住職の口利きもあり柳沢保明様に士官がかなったことを伝え、自身の名を「荻生徂徠」だと明かす。10両と新しい店は、徂徠が豆腐の代金とお礼にと用意したものだった。
しかし七兵衛は、赤穂浪士たちを切腹させたことに抗議する。これに徂徠は「いくら仇討ちといっても、徒党を組み討ち入ることは禁じられています。天下の法を犯した彼らは、本来ならば打ち首です。とはいえ、浪士たちは主君への忠義を果たした武士。武士の大小の小刀は己を斬るためのもの。浪士たちが武士のまま主君の元へ馳せ参じることができるよう、切腹という情けをかけたのです」と説明した。
「私は豆腐を無銭飲食して法を犯しましたが、七兵衛さんが“出世払い”という形で法を曲げずに情けをかけてくれました。学者として世にでることができたのは、七兵衛さんのおかげです。私も七兵衛さんの言葉を思い出し、法を曲げずに赤穂浪士たちに情けをかけたのです」
七兵衛は涙ながらに「赤穂浪士たちも立派だが、先生も立派になった」
「いいえ、私はただの豆腐好きの学者です」
「そんなことはない。先生はあっしらのために、自腹を切ってくだすった」
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