年収90万円になったら、なぜか想像したより「豊か」になったワケ【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(2)

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年収90万円になったら、なぜか想像したより「豊か」になったワケ【連載】大原扁理のトーキョー知恵の和(2)

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大原扁理

隠居生活者・著述家

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何とは言えないのだけど何となく息苦しい。そんな気持ちでいる人へ、東京で週休5日・年収90万円という「隠居生活」を実践した大原扁理さんに生き方のヒントを尋ねる企画「トーキョー知恵の和」。今回のテーマは「東京と『豊かさ』とは」です。

東京でお金が「最重要価値」とされてしまう理由

 大都市・東京に暮らす以上、否応なく「豊かさ」の基準となるのがお金の有る無しです。たしかにお金があれば、好きなものを買えるしおいしいものを食べられて、どこへだって行くことができる。それでも、お金だけに自分の価値基準のすべてを預けることが、脆(もろ)く危うく見えるのはなぜでしょう。お金至上主義にふと疑問を抱いたとき、「東京隠居生活」(週休5日・年収90万円!)を実践した大原扁理(おおはら・へんり)さんの考え方がひとつのヒントになるかもしれません(構成:ULM編集部)

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 東京ほど、「豊かさ」の基準がわかりやすい街もないと思います。

 住宅地は「山の手」「下町」あるいは「簡易宿泊街」などに分かれて、スーパーにも「高級」「庶民」「激安」とランクがあります。学校も病院もそう。よく言えば多様性に富んでいるということなのかもしれませんが。

 私の地元の田舎(愛知県三河地方)では、人のライフスタイルなんて町じゅうどこを切っても金太郎アメみたいに同じでしたから、持ってるお金の量で行く場所や住む土地に違いが出るなんて、ほとんど聞いたことなかったんです。

 東京に出てきて感じたのは、「なんでこんなにいちいちお金とるの?」ってことでした。

 自転車や車を停めるのに料金が発生するってのがまず信じられなかったし、ちょっと座って休憩しようにも椅子がないから、カフェとか商業施設に入らなきゃいけない。

 上京したての頃はバイト生活で、そんな余裕はありません。貧乏人は立ってろということ? あれ、私って人並みの生活すらできてなくないか……??

 そんなわけでその頃は私も、個々人の収入や所持金の多い・少ないが「豊かさ」なのだと、すっかり思い込んでいました。

「経済的豊かさ至上主義」へのカウンター

 でも、何かが行き過ぎたときにはバランスをとるようにしてカウンターカルチャーが生まれる、というのはよくある話です。

 戦争のあとには反戦運動が、肉食文化のあとにはベジタリアンブームが起こる、とかね。自浄作用みたいなもんでしょうか。

大原さんの「隠居生活」の様子を描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作)



 田舎者の目に、東京の何が行き過ぎに映ったかといえば、やはり「経済的な豊かさ至上主義」でした。

 元京大卒ニートのブロガーpha(ふぁ)さんが注目されたり、『0円で生きる』などの著者・鶴見済(わたる)さんが実践しているようなことって、この東京的な「経済的な豊かさ至上主義」に対するカウンターカルチャーのなかに位置づけられるような気がします。本人たちにそのつもりはないかもしれませんが。

 従来の「お金に価値を置きすぎる生き方」とは違う別の方法ってないんだろうか――。私も心のどこかで、自分なりに模索をし始めていました。

お金の「万能感」を薄めてみると……?

 余裕がないときや焦っているときって、損得勘定に敏感になるような気がしませんか? 人より1円だって損したくない。人のためなんかに指1本動かしたくない! って。

 でも、目を皿のようにして自分が損してないかを探し続けるのって、超しんどい。

 ところが、国分寺市内に家賃2万8000円の「激安価格破壊アパート」を見つけて「隠居生活」を始めてからは、私にとっての「豊かさ」の意味が大きく変わっていきました。

 いろいろと工夫して生活していくと、思ったよりも全然、お金がかからない。

 他のみんながお金を使って外注していることを、お金を使わずに自分でやっちゃうと、お金の万能感みたいなものが薄まっていくんです。隠居生活を経験して以降、経済的な意味での「豊かさ」は、私の中で力を失っていきました。

「豊かさ」のものさしを、いくつも持てたら

 拙著『なるべく働きたくない人のためのお金の話』(百万年書房)で、前出の鶴見済さんと巻末対談をさせていただいたときに、「ソーシャル・キャピタル」という言葉を教わりました。

 日本語では「社会関係資本」などと訳されます。お金ではなく、人とのつながりを資本として社会を回していくという考え方です。

 たとえば食材の調達、子どもの面倒、引っ越しなんかを、お金で済ませるんじゃなくて、友達や地域の人に手伝ってもらったりして、こちらも自分のできることでお返しをする。うん、これも、とても豊かなことだと感じませんか?

 それから、私のように、食べられる野草を自分で採りに行ったり、自転車を自分で修理したりといった自分の能力(もっと身近な例でいうと「自炊」とかも)、そういうのも豊かなことだったんだと思うようになりました。

大原さんの「隠居生活」の様子を描いたイラスト(画像:大原扁理さん制作)



 隠居暮らしをしてからの私には、お金に頼るだけではない「豊かさのものさし」がたくさんできました。

 お金だけが解決方法だった隠居前よりも収入はずっと下がったけれど、よっぽど生活は充実するようになりました。これはどうしてなのでしょう。

 単純に、解決方法がたくさんあるってことはつまり安心なんだと思うのです。お金以外にも「豊かさのものさし」を、たくさんたくさん持っておくことが、今の私にとっては豊かなことなんです。

でも、「豊かさ」同士の対立は要らない

 自分なりの「豊かさのものさし」を増やしていくうえで気をつけていることは、そのものさしを、ほかの豊かさとの対立に利用しないということです。戦争じゃないんだから、勝ち負けとか優劣なんて、いいのです。

 はじめはカウンターカルチャーとして生まれて、戦う相手が必要だった価値観でも、やがて敵を求めなくても、軽やかに個人的に、続けるだけで成立するような段階へと落ち着いていくんじゃないかと考えています。

 たとえば私は、経済資本主義から片足抜け出したような生活をしていて、それが結果として反対運動的に捉えられることもありますが、本人は別にそれと立ち向かってるつもりもないのです。

 ただただ実感として快適だからやってたら、そうなっちゃったというだけです。だから人に勧めることにも、それ以外の生き方を否定することにも、あまり興味ありません。

 なぜそうしてるかといえば、そのほうが圧倒的にラクだから。ラクだと省エネで済みます。省エネだと長続きします。そこから先は、きっと人それぞれ。

 みんながそれぞれの「豊かさのものさし」で生きている世界って、きっとべらぼうに面白いと思います。

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