「これは散歩なのか」。ふと足が止まる
どちらかと言えば散歩は苦手です。目的地があるとついついまっすぐにそこへ向かってしまいます。
拙著『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する 1』(代わりに読む人刊)に詳しく書いたことですが、2018年は荻窪の本屋「Title」(杉並区桃井)に足繁く通いました。荻窪駅から青梅街道をまっすぐに歩いて行って、まっすぐに歩いて帰ってきました。
はて、これは散歩なのでしょうか。わかりません。ただ、ある時期までの私は、目的地へは駅から自分の足で歩かねばならないという、よくわからない義務感に取り憑かれていたことは確かです。ひょっとしたらこのことは私が散歩を苦手としていることと何か関係があるのかもしれません。
もっともっと散らばらさなければいけない。何しろ散歩は「散」と書きます。けれども私は一心不乱に目的地を目指して歩きました。これを真面目という言葉で片付けてよいものかどうか迷います。ひょっとしたら、これは極めて不真面目なことかもしれないからです。
こんなことを思い出します。
かつて大学院生だった私は研究集会で長野県内の山荘に宿泊していました。日程の中日は夕方までが自由行動で、多くの人は山に登りました。ある高名な数学者の先生は朝私たちが起きるともう山登りに出発した後でした。
先生はどこへ行ったのだろうと仲間で山を登り始めました。先生のことだから、自分の足でいくつも山を越えて湿原の方まで行かれたに違いない。私たちは同じように自らの足で山を越えはじめたのですが、ひとつの山を越えるのがやっとで、昼過ぎに諦めて引き返してきたのです。
ところが、夕方会場に姿を現した先生ははるか遠くの湿原まで行ったとおっしゃいます。ひょっとしてものすごい速さで踏破されたのでしょうか。
「いえ、手前のいくつかの山はリフトを使いましたよ。いちばん行きたい場所をしっかり歩くため、使えるものは使います。全部を自分の足で歩かなくったっていいんですよ」
自分で歩くことも、歩かないこともまた散歩
私たちは完全にやられたと思いました。
先生のことだからすべてを歩いて行った、一歩一歩踏み固めて行ったと思い込んでいたのです。ところが、いちばん先端を歩くために先人が築いてくれた便利な道具はありがたく使ったというのです。
これこそまさに先生が数学で実践されていることでもありました。私は先生を眩しく見上げました。そのようなことを思い出したからだったか、どうだったかわかりませんが、ある時期以降の私はTitleへ行くのに、日によってはバスを使うようになりました。
そこでまた困ったことが起こります。荻窪駅の北口にはロータリーを囲うようにしてバスの乗り場を示す看板が(0)、(1)、(2)というように6つか7つ並んでいます。行き先も武蔵関駅行き、上井草駅行き、中村橋行き、南善福寺行きなどと、まちまちです。
Titleのある八丁へはバス停で3つほどです。多くのバスは駅前の街道を同じように走って行きます。Titleの近くのバス停には確か(0)から(4)くらいまでのバスが行くはずです。ただうっすらと記憶にあったのは、そのうち(2)だか(3)の乗り場から出るバスはそこへは行かず、途中で曲がってよそに行ってしまうということでした。
心配になって人の並んでいる列の後ろから路線図を見ますが、離れていてよく見えません。荻窪駅のあたりの路線図は路線ごと色で塗り分けられていますが、似たような色の束になっていて、果たしてどれが目的地に行くのか、行かないのか指で辿らないことにはわかりません。
けれど、行列の後ろからでは路線図は直にはなぞることができません。バスの横の表示を見ると、いくつかの主要なバス停の名前が表示されているだけで、目的のバス停の名前はそこにはありません。大まかな経路を書いているのです。そこで諦めて、列の最後に並び私はバスに乗り込みます。乗り込みぎわに、運転手さんに訊きました。
「これは八丁に行きますか?」
この右往左往も散歩かもしれないと気づくとき
すると運転手さんは行きますよとなんと言うこともなく答えてくれます。
なんだ、こんなことなら最初から聞けばよかったか。私は乗り込み席に座ると、再び不安に襲われます。このバスは八丁に行くが、いちばん先に八丁に行くバスだろうか?
無論、私は急いでなどいないのです。ですから、この乗り込んだバスがいちばん先に出発するかどうかなど、本来はどうだっていい。せいぜい10分かそこらの違いでしょう。ここは山奥のバス停ではありません。
ところが、私はここでもまだいちばん先に出発するかどうかと気を揉んでいるのです。そもそも、ちょっと違う場所に行ってしまったって、構わないのです。まったく別の世界に行ってしまうなどということは願ったとしてもありえないのですから。
少々思っていたのと違うところに行く。それこそ散歩ではありませんか? あるいはいつまでたっても荻窪駅を出発しない。そのようなバスがあってもいいじゃありませんか。それこそが散歩の醍醐味ではありませんか。
しかし、ついいつもの癖で、効率のことを考えてしまうのです。上手に散歩を実践するのは、たやすいことではありません。ただそのことをここで私は悲観しているのではありません。まさにそうやって右往左往しているその時、私は確かに「散歩」していることになるからです。