アニメ映画『天気の子』で一躍注目 北区「田端」は大正・昭和初期のクリエイティブ最前線だった

2019年7月に公開された新海誠監督によるアニメ映画『天気の子』で一躍注目を浴びた田端。そんな田端にはかつて文豪たちが集まり住んでいた場所がありました。法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。


1キロ平方メートルに集まった才能たち

 11月1日は、詩人・萩原朔太郎(はぎわら さくたろう)の誕生日です。朔太郎は当時の文人らしく、前橋や東京を往復しながら転居を繰り返していましたが、盟友だった作家・室生犀星(むろお さいせい)に誘われ、1925(大正14)年に数か月間だけ田端に転居していました。

 朔太郎を誘った犀星が田端に転居したのは1916(大正5)年。1923(大正12)年の関東大震災後、金沢へ一時期戻り、1925(大正14)年に再び田端に戻っています。犀星が金沢に戻っていた間、『蜘蛛の糸』『羅生門』などの小説で知られる作家・芥川龍之介のあっせんで菊池寛が住んでいたそうです。

芥川龍之介の旧居跡(画像:写真AC)

 そんな芥川が田端に転居したのは、犀星より以前の1914(大正3)年でした。芥川は当時まだ学生で、世間から評価を受ける少し前のことです。犀星と田端で親交を結び、田端文士村の展開が始まります。もちろん芥川、犀星以前にも洋画家・小杉未醒(みせい)や陶芸家・板谷波山(はざん)が田端に転居しており、当初から作家だけが集まっていたわけではありませんでした。

 1896(明治29)年に東北本線(現在の京浜東北線)の駅として田端駅が開業。その後、1903年に豊島線(現在の山手線)が開通したことを契機に田端には人が集まるようになりました。その後、農村から住宅地へと変化。また地盤がしっかりしており、関東大震災の被害が少なかったため、ベッドタウン化が進みました。

 田端に芸術家や作家が集まった背景には、1887(明治20)年に上野で設立された東京美術学校の存在があったと言われています。芥川の書斎には日曜ごとに近隣の芸術家や作家が集まり、「驢馬(ろば)」という雑誌が創刊。編集作業の打ち上げは「紅緑」というカフェで行われていたといいます。

 田端には芥川や菊池、作家・直木三十五が揃って住んでいたので、芥川賞や直木賞は田端なしでは生まれなかったでしょう。なお、「紅緑」の女給のなかに後の佐多稲子がいました。そういった意味では、田端はまさに人材交流と育成を含めた当時の「クリエイティブスポット」と言えます。

 わずか1キロ平方メートルのなかに、これだけの作家や芸術家が集まっていたのは驚きとしか言いようがありません。なお戦前には馬込、阿佐ヶ谷、落合などにも文士村がありました。画家などが集まっていたアトリエ村「池袋モンパルナス」も有名です。

 彼らは心地のよさや情報交換、相互啓発のために同じ場所に住んだのでしょうか。どちらにせよ、現在はインターネットやスマートフォンが情報交換を代替しますし、当時と比べてプライベート重視の生活スタイルになっているため、このような現象は顕在化しないでしょう。

アニメ映画『天気の子』に駅舎南口が登場


【画像】本当に都心の風景? アニメ映画『天気の子』に登場した田端駅南口付近の様子

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