音楽でも古着でも阿波踊りでもない。実は高円寺、昭和レトロな「看板建築」の見本市だった
高円寺といえば音楽や古着、サブカルチャー、阿波踊りなどのイメージがもっぱらですが、実は看板建築の街としても知られています。都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。都内屈指のバラエティ 新宿から中央線に乗って7分。JR高円寺駅の周辺は、古着を中心にした若者向け洋服店や雑貨店、廉価な飲食店、小規模なライブハウスや古本屋がひしめきあい、日本のインドとまで言われるほど、混沌とした魅力を放ちます。 そんな高円寺駅周辺は、実は種々雑多な看板建築が集積する、看板建築の見本市の様な場所でもあります。今回は、さまざまな魅力を放つ高円寺を、看板建築という視点で巡る話です。 昭和商店街の原風景のようなエトアール商店街の看板建築群(画像:黒沢永紀) 高円寺という駅名は、駅の南口から程近いところにある、曹洞宗の寺院「宿鳳山(しゅくほうざん)高円寺」(杉並区高円寺南)に由来します。徳川三代将軍家光が鷹狩りの際に立ち寄った故事を持つ古刹で、寺の界隈はいささか閑静な雰囲気ですが、それ以外のエリアはおよそ寺町とはかけ離れた、高密度の商店街で埋め尽くされています。 特に商店街が細分化されているのが特徴で、南口駅前に広がる「南商店会」、その西に隣接して南に伸びるアーケードの「パル」と、その先から東京メトロの新高円寺駅まで続く「新高円寺通商店街」、通称ルック。パルとルックの接点から西へ伸びる「エトアール通り」というように、横文字の多めな商店街が広がっています。 かたや北口の商店街はすべて日本語表記で、駅前一帯の「銀座商店会」を中心に、東に隣接して北に伸びる「あずま通り」、西に隣接して北に伸びる「庚申通り」があり、さらに駅から北西方向へ伸びる「中通」と、それに続く「北中通」というように、実にさまざまな商店街がひしめきあっています。 ルックとエトアール通り以外の全ての商店街名には、頭に「高円寺」と付きますが、確かにそれがないと、全国の商店街名で上位にランクインしそうな、ありふれた名称のものばかり。また、銀座商店会は、出身者でもあるねじめ正一氏の著書にあやかって、今では「純情商店街」と呼ばれています。 そしてこれらの商店街に並ぶ多くの店舗が、いわゆる看板建築と呼ばれる工法によって建てられたもので、特に高円寺は、都内屈指のバラエティさを誇るのが最大の特徴です。 広がりの背景に西洋の合理的な考え方広がりの背景に西洋の合理的な考え方 看板建築とは、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた東京の右半分を中心に、昭和の初期から建設が始まった商店建築のスタイルです。もともと国内の商店は、日本家屋を元にした町家といわれるものがほとんどでした。今でも酒屋をはじめ、町家造りの商家は数多く残っています。 しかし大震災で多くの商店が焼失した後、区画整理が行われ、本格的な復興が始まった際に、建屋を道に張り出して造ってはいけないという決まりが生まれました。その結果、従来の1階が張り出した町家造りをやめ、なるべく土地を有効利用できるよう、店舗の正面を“看板の様に”垂直に立ち上げた造りが考案されました。これが看板建築です。なお、看板建築というのは後年の呼称で、当時は街路建築などと呼ばれていたようです。 おりしも西洋から、鉄筋コンクリートのビルという新しい建物が伝わって、垂直に立てた店構えの正面を西洋風に仕上げるのが流行り、これがその後の路面店舗の原型となりました。こうして、江戸時代から続く商家とは全く異なる店が建ち並ぶ商店街が誕生したわけです。 さらに戦後の復興期も大震災後にならって、多くの商店が看板建築で建てられました。ただし、正面を装飾的に仕上げる戦前と違って、シンプルで無装飾に仕上げるのが戦後の大きな特徴です。もちろん例外はありますが、合理的な考え方の広まりにともなって、モダニズムの建築様式が普及したことによります。 戦前戦後の建築を見分ける判断基準とは戦前戦後の建築を見分ける判断基準とは それでは高円寺の看板建築を、まず南側から見ていきたいと思います。 南口から一直線に南下するパル商店街。ここにも看板建築は点在しますが、アーケードなので、2階部分がよく見えないのが残念です。そして、パル商店街の終点直前から西へ伸びるエトアール通りは、高円寺周辺で最も看板建築が残っているエリアといえるでしょう。 ほどなく進むと右手の角にスーパーの西友があり、その向かいの道沿いに看板建築がずらりと並んでいます。基本的にはモルタル塗りで、その造りからおそらく戦後すぐの看板建築ではないでしょうか。 エトアール商店街にある、国際様式の看板建築(画像:黒沢永紀) ちなみに、戦前の看板建築か戦後の看板建築かを見分ける判断基準のひとつは、奥に建つ母屋にあります。日本家屋の屋根は、その多くが「切妻(きりづま)」と呼ばれる構造で、本を半開きの状態で伏せた形といえばおわかりいただけるでしょうか。 最も単純でしかも風雨にも強いので、切妻の屋根を持つ建物は今でも数多く造られます。本を伏せたときに、山状になっている部分を「妻(つま)」、小口にあたる部分を「平(ひら)」といいます。 そして、平側が道に面して出入口になっている場合、すなわち「平入り」は、だいたい戦前の建物、妻側が道に面している場合、すなわち「妻入り」は、戦後のものということができます。もちろん例外はありますが、町家は平入りで造られることがほとんどで、看板建築の場合もそれにならって母屋は同様の造りでした。 しかし、平入りと妻入りを比べると、平入りのほうが工費もかかり、使えるスペースも少ないため、戦後はコスパがいい妻入りが多く造られるようになります。西友の向かいに並ぶ看板建築の母屋の多くは妻入りなので、戦後すぐのものではないかと判断しましたが、まさに昭和商店街の原風景を見るようです。 さらに西へ進むと、1階に美容室の「ポンヘア」が入店する建物が見えてきます。これも、前述の基準に照らし合わせると、妻入りなので戦後のものだと思います。 正面をフラットな白壁で覆い、1階には大きな窓とドア、2階中央に方形の窓がひとつ。そして正面の右4分の1くらいを少し張り出してその中に階段を儲け、1階から2階まで格子付きの全面ガラス窓にし、全て直線的で、採光に長けているのが特徴です。 これは、戦前からありながらも普及せず、戦後になってやっと普及することになった国際様式と呼ばれる建築様式そのもののデザインで、ビルとしてはいくつか現存するものもありますが、看板建築でこのスタイルのものは極めて珍しい例といえるでしょう。 まだまだある看板建築 パルへ戻って南へ進むと、ほどなくしてルック商店街へと続きます。ルックは緩やかな上り坂で、その坂が終わるあたりに、戦前の看板建築が残っています。 1階には「喜久寿し」や「相続・空き家対策相談所」が入店する三軒長屋。特に右の二軒の上部には、とても綺麗な緑青が浮き出た銅板が残っています。青海波の文様や西洋風の梁受けなど、細かな意匠にもこだわりを感じる逸品です。 ルック商店街にある、アール・デコな看板建築(画像:黒沢永紀) そしてその斜め向いに建つ「キャンディ・ウッド」が入店する建物は、シンプルながらアール・デコの装飾がくっきりと残る看板建築。まさに戦前看板建築の、ひとつの典型的な形といえます。 個性的なものからスタンダードなものまでさまざま個性的なものからスタンダードなものまでさまざま 駅へ戻って、今度は北口の商店街へ。まずは北西へ伸びる中通とその先の北中通へ。この商店街にも看板建築はあまた並びまずか、それより商栄会の奥にある古本と酒と文士料理の店「コクテイル書房」が入店する建物は、看板建築ではありませんが、さらに古い時代の木造四軒長屋。ここまで古い建物は、高円寺では珍しい方です。 庚申通りは、その名の通り商店街のほぼ真ん中に庚申塚のある商店街。この通りにも数多くの看板建築が残っています。特に中程にある「稲毛屋金物店」は、特徴的な看板建築といえるでしょう。 建物の周囲を枠状に施工して、枠の部分にだけタイルを貼り、2階の正面部分はモルタルで仕上げ、中央にあるシンプルな窓枠もタイル張りです。枠に貼られたタイルはスクラッチ・タイルという昭和初期に爆発的に流行ったタイルでが、建物全体のデザインや奥の家屋が妻入りなので、戦後すぐに建てられたものではないでしょうか。 庚申通り商店街にある、スクラッチ・タイルで囲われた看板建築(画像:黒沢永紀) あずま通りにも、綺麗なブルーのタイルが全面に貼られたもの、2階の窓の下に味のあるイラストが施されたもの、人造石で覆って腰壁だけスクラッチ・タイルを貼ったもの、そしてシンプルなモルタルながら植物が覆い、1階には可愛い店が入店するものなど、他のエリアにはない看板建築が目白押しです。 高円寺駅の周辺に広がる商店街の看板建築。そのほんの一部を紹介しましたが、まだまだ他にも、個性的なものからスタンダードなものまで、さまざまな看板建築が密集します。 今でも残る「生きた」看板建築の商店街今でも残る「生きた」看板建築の商店街 かつて日本の商店街を埋め尽くした看板建築は、繁盛している商店街ほど、その多くがバブル期から平成の間に建て替えられてしまいました。新しいものを見ると、フラットなタイル貼りのものが多く、個別の違いといえばその色くらいでしょうか。没個性な店舗が並ぶ商店街に、景観の楽しみを求めることはかないません。さまざまな素材やデザインで造られた看板建築が並ぶ景観の楽しい商店街は、失われつつあります。 ルック商店街にある、凝った銅板葺きの看板建築三軒長屋(画像:黒沢永紀) そして看板建築が残る商店街も、その創設期をはじめ、特定の時期に一気に建てた建物がそのまま残っているため、ひとつの商店街には似通った造りのものが並びがちです。そんな中、高円寺の商店街には、戦前や戦後の看板建築が残るばかりでなく、さまざまなタイプのものが混在し、さながらその様子は「看板建築の見本市」とでもいえます。 さらに、看板建築が残る商店街は、往々にして勢いを失っているものが多いのに対して、高円寺の商店街は活気にあふれ、平日でも人通りが絶えるのを見たことがありません。高円寺には、生きた看板建築の商店街が今でも残っています。 20世紀の日本を席巻した商店建築のスタンダード「看板建築」を見ながら、高円寺を巡ってみるのはいかがでしょうか。
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