えび天にいか天…東京のお好み焼き屋さんの「天」って何?

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えび天にいか天…東京のお好み焼き屋さんの「天」って何?

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近代食文化研究会

食文化史研究家

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えび天にいか天、しょうが天。東京のお好み焼き屋には、名前の最後に「天」のつくメニューがたくさんあります。この「天」がつくお好み焼き、1900年前後(明治30年代)に現れた日本最古のお好み焼き。しかもこの「天」お好み焼きが、大阪や広島など日本各地のお好み焼きのルーツになったのです。著書『お好み焼きの戦前史』『お好み焼きの物語』でお好み焼きの歴史を明らかにした、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

巣鴨地蔵通縁日名物、お好み焼き屋台

 おばあちゃんの原宿、巣鴨地蔵通商店街。

巣鴨地蔵通商店街縁日のお好み焼き屋台(画像:近代食文化研究会)



 毎月四のつく日(4・14・24日)の縁日には、商店街は多くの屋台と人出でにぎわいます。そしてその中に、ひときわ長い待ち行列ができるお好み焼き屋台があります。

巣鴨地蔵通商店街縁日のお好み焼き屋台(画像:近代食文化研究会)

 値段は200円(2022年現在)と格安。メニューは、えび天、いか天、しょうが天の三種類。

えび天(画像:近代食文化研究会)

 干しえびがたっぷりのった「えび天」は、200円とは思えないほど食べごたえがあります。ちなみにいか天にはスルメがのっています。

 さて、東京のお好み焼きの老舗、例えば1937(昭和12)年創業の浅草の「染太郎」などでは、この屋台のようにねぎ天や豚天など、名前に「天」がつくお好み焼きが多種類売られています。

浅草のお好み焼き老舗「染太郎」(画像:近代食文化研究会)

 この東京の古典的お好み焼きにつく「天」という文字は、いったい何を意味しているのでしょうか?

「天もの」は日本最古のお好み焼き

 ここでは仮に、「天」の名のつく各種お好み焼きを「天もの」と名付けましょう。

 「天もの」の初出は、1900年前後(明治30年代)の東京における「牛天」です。実はこれが、日本最古のお好み焼きの記録なのです。

  “いろいろの屋台店の中で、街の子供たちが集まるのは、「牛天」であった。鉄板の上にウドン粉を溶いたものを流し、それに挽肉(正体不明)とネギとを入れて焼いたもの。明治三十年代には一個二銭。これを新聞紙に包んで渡す。”(植原路郎『明治語録』1978年刊)

 1894(明治27)年生まれの植原路郎(うえはらろろう)の子供の頃の回想です。この牛天、作家・池波正太郎の大好物。『むかしの味』(1984年刊)でその作り方を披露しています。

牛天の作り方(近代食文化研究会『お好み焼きの物語』2019年刊より)

 池波正太郎の場合は生地に具材を混ぜ込む「まぜ焼き」方式ですが、生地をクレープのように焼いてから具材を上に乗せる「乗せ焼き」方式の牛天も存在しました。

 明治時代に東京で生まれたこの「天もの」が、大正時代以降に全国に伝播し、各地のお好み焼きになります。

大正時代に各地に伝播した「天もの」

 作家・大谷晃一が1933(昭和8)年に大阪で食べた一銭洋食は、干しエビを乗せた東京のえび天が伝わったものでした。

 “いつ汲んできたのかしれないバケツの水で、小麦粉を溶いている。味はつけていない。それを鉄板に丸く薄く流す。干した桜エビ、ねぎ、かつお節、青のりをばらまく。その上に、溶いた小麦粉を少しかける。大きなコテで一気に何度もひっくり返す。子供たちは小さなコテでばんばんとたたく。薄くなる。でき上がると、はけでソースを塗る。”(大谷晃一『大阪学 続』 新潮文庫1997年刊)

 広島で古田正三郎さんが食べた1921(大正10)年ごろの一銭洋食は、浅草染太郎にある「ねぎ天」の乗せ焼きバージョンでした。

 “1、メリケン粉の水溶きをお玉ですくって、鉄板の上にたらたらと流し、径四寸~四寸五分の円形に広げる。”

 “2、きざんだ青ねぎを地がかくれるほど一面に散らす。”

 “3、ねぎの上にも水溶きメリケン粉を少し流して、ねぎが飛び散らないようにしておいて、ひっくり返して焼く。”

 “4、もう一度表に返して二つ折りにし、皮に醤油を塗る。” (農山漁村文化協会編『日本の食生活全集 34』1987年刊)

「天もの」の天の語源

 1918(大正7)年3月24日の読売新の朝刊にお好み焼き屋台の記事が載っています。その屋台のメニュー表には、
 
 “△エビ天プラ一錢△イカカキアゲ一錢”
 “△カツレツ一錢△シウマイ一錢”

 と、あります。

 えび天の「天」とは天ぷらのことだったのです。

 メニュー中の「カツレツ」については、池波正太郎がその作り方を『むかしの味』(前出)に書き残しています。

 “メリケン粉を鉄板に小判型に置き、その上へ薄切りの牛肉を敷き、メリケン粉をかけまわしてパン粉を振りかけ、両面を焼き上げたもの”

カツレツの作り方(近代食文化研究会『お好み焼きの物語』2019年刊より)

 メニュー中の 「シウマイ」は、現在も浅草染太郎において提供されています。切り餅を四個使って正方形の堤防を作り、そこにひき肉入りの生地を流し込んで焼いて、醤油をかけて食べるお好み焼きです。

染太郎のしゅうまい天(画像:近代食文化研究会)

 明治時代の東京で生まれたお好み焼きとは、和食(天ぷら)や洋食(カツレツ)や中華料理(焼売)のパロディ料理。全く似ていませんが、その似ていないところをむしろ楽しむ、子供向けの駄菓子料理だったのです。

 お好み焼きの歴史については、拙著『お好み焼きの戦前史』もしくは『お好み焼きの物語』を参照してください。

「天ぷら」から「一銭洋食」「洋食焼」へ

 戦前の東京のお好み焼きには、数十種ものパロディ料理がそろっていました。おしるこ、寄せ鍋、寿司、エビフライ、ビーフステーキ、オムレツ、芙蓉蟹(フーヨーハイ)などなど。

 その中で大人気となったのが、天ぷらのパロディである「天もの」。しかし、これが西日本に伝わると「一銭洋食」あるいは「洋食焼」へと名前が変わっていきました。

 今でこそ全国に名の知れた天ぷらですが、大正時代当時は東京・関東ローカルの食べ物。西日本で「天ぷら」といえば、当時は魚のすり身を揚げたさつま揚げ的な食べ物を意味しました。

 天ぷらの「天」といっても、西日本では意味が通じないので、「一銭洋食」あるいは「洋食焼」という名前に改名するようになったのです。

風流お好み焼 染太郎
住所:東京都台東区西浅草2-2-2
TEL:03-3844-9502
アクセス:東京メトロ銀座線 田原町駅より徒歩3分
東武伊勢崎線 浅草駅より徒歩3分
東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅より徒歩5分

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