江戸の面影そのままに――明治時代の庶民のヒーロー「消防組」とは何か
明治の錦絵で振り返る「消防組」 2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大により多くの美術館・博物館で展覧会の延期や中止が発表されました。神奈川県立歴史博物館(横浜市)で4月25日(土)より開催予定だった特別展「明治錦絵 × 大正新版画」も中止となった展覧会のひとつです。 月岡芳年「各大区纏鑑 二大区五番組」部分(画像:神奈川県立歴史博物館) 同展は、明治・大正時代の木版画、いわば「ポスト浮世絵」とも言うべき作品群を紹介する展覧会でした。今回の展覧会を心待ちにしていた人も多く、展覧会中止の報に多くのファンが肩を落としました。 本稿では、同展に出品予定であった「新発見」資料の中から、江戸の町火消(まちびけし)の面影を残す明治時代の「消防組」の姿をご紹介します。 「最後の浮世絵師」が描いた明治の火消 新発見の作品をご紹介する前に、まずはひとつ作品をご覧ください。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第一大区九番組」(左)「各大区纏鑑 第一大区十番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) 同作品が描かれたのは、1876(明治9)年。描いたのは幕末から明治期に活躍し「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年(1839~1892年)です。140年以上前とは思えない、現代の漫画家やイラストレーターに近い感性を抱きませんか? 作品には、火消組の旗印である纏(まとい)を持つ、精悍(せいかん)な消防組の姿が描かれています。これは江戸時代以来の木版画の技術で制作された「錦絵(多色刷の木版画)」で、おそらく当時、一定数量が制作・販売されたものと考えられます。 全国を数字で整理しようとした明治初期全国を数字で整理しようとした明治初期「各大区纏鑑(かくだいくまといかがみ)」と題されたこの作品には、1871(明治4)年に施行された「大区小区制」という地方制度と、翌1872年に行われた町火消から消防組への改組の歴史を見ることができます。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第一大区五番組」(左)「各大区纏鑑 第一大区六番組」(画像:神奈川県立歴史博物館)「大区小区制」とは、各府県の下に大区を設け、さらにその下に小区を置いて、数字で行政区画を表示する地方制度でした。 東京府(現在の東京都)では、はじめ六つの大区を設け、その下に97の小区が置かれました。作品の中の「第一大区」とは、皇居の東方、神田・日本橋・京橋エリアのことを指しています。 「町火消」から「消防組」へ そして時代劇などでご存じの方も多いと思いますが、江戸時代、江戸には「いろは48組」と「深川16組」の町火消が存在し、火災時には消火活動を行い、平時から町の治安維持に貢献していました。町火消は組ごとにそろいのはんてんを着て、それぞれの組のシンボルである纏を大切にしていました。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第一大区一番組」(左)「各大区纏鑑 第一大区二番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) 明治時代を迎え、町火消は「消防組」に改組し、64組あった火消組は39組となり、人数も約4分の1に減りました。時代とともに、江戸の町火消の姿は徐々に消えていくことになりますが、この「各大区纏鑑」に描かれた彼らは、おのおのの組の纏を手に、とても誇らしげです。 「江戸の三男」に数えられるほど 江戸時代、火災から町を守る火消は人々のヒーローであり、火消組の頭ともなれば、与力や力士とともに「江戸の三男」に数えられるほどでした。作品を描いた芳年も、火消が好きだったと伝えられています。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第一大区七番組」(左)「各大区纏鑑 第一大区八番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) 錦絵が出版されるほどですから、「火事と喧嘩(けんか)が江戸の華」であった時代が終わっても、明治時代、東京の人々の消防組に対する好意は、根強かったのではないでしょうか。 日本橋は「東京府1-6」?日本橋は「東京府1-6」? そんな明治の消防組の纏を紹介した「各大区纏鑑」は、これまで第一大区の「一番組」から「十番組」までの10図が知られていました。 例えば「第一大区 三番組」の纏の図。江戸時代の「ろ組」の纏が受け継がれています。そして画中には「三番組」の管轄下にある「第一大区六小区」の町名が列記されています。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第一大区三番組」(左)「各大区纏鑑 第一大区四番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) 現存しない町名が多いですが、「六小区」は現在の日本橋の辺りです。また枠の中には「三番組」の組頭や纏持、梯子(はしご)持の名前も記されています。 庶民にもなじみの消防区分「各大区纏鑑」の他の図を見ると、必ずしも小区がそのまま消防組の区画に対応していたわけではなかったこともわかります。第一大区12小区の町名(岩本町、馬喰町、小伝馬上町など)は、一番組・七番組・八番組の三つの組に分かれています。 月岡芳年「各大区纏鑑 第一大区三番組」部分(画像:神奈川県立歴史博物館) もしかしたら庶民にとっては、新政府がにわかに編成した行政区画よりも、江戸の火消組を基盤とする消防組の区分の方が、なじみがあったのかもしれません。 お蔵入りした幻の錦絵 そしてこのたび新発見されたのが、「各大区纏鑑」の第一大区以外の図。皇居の南方の第二大区の五番組、上野・浅草エリアの第五大区の一番組(※纏の形状から推定)、三番組、六番組の消防組の纏を描いた4図が確認されました。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 二大区五番組」(左)「各大区纏鑑 第五一番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) これまでご紹介してきた10図と異なり、画面の枠の中に町名や人名が書き込まれておらず、出版の届け出の印も確認できないことから、未完成品(試し刷りの段階)と考えられます。なんらかの事情で、世に出ることのないまま終わった錦絵なのでしょう。 ただ少なくとも今回の発見で、当初「各大区纏鑑」は第一大区以外の消防組の纏も紹介していく予定だったことがわかりました。 揺れる制度、変わる消防揺れる制度、変わる消防 結局、大区小区制は1878(明治11)年に廃止されてしまうのですが、施行期間の7年の間にも編入などがあり、最終的に東京府は11大区103小区になりました。 また明治初期、消防事務の所管は東京府や省庁を転々としており、1872(明治5)年以降も各消防組の組織編成に影響が及んだものと推測されます。 月岡芳年(右)「各大区纏鑑 第五三番組」(左)「各大区纏鑑 第五六番組」(画像:神奈川県立歴史博物館) 当時、これら刻々と変動する情報を編集し、東京の全消防組の纏を錦絵で紹介するのは、なかなか骨が折れたことでしょう。 「各大区纏鑑」の出版の動機や流通について詳しいことはわかっていませんが、10図での刊行打ち切りは、当時の社会情勢も考慮する必要があるでしょう。 ゴッホにも届いた明治錦絵 さて、この新発見の4図、一体どこから出てきたかと言うと、江戸時代から日本橋で錦絵の制作と販売を行っていた版元「萬屋(よろずや)」の当主・大倉孫兵衛(おおくら まごべい、1843~1921年)が遺(のこ)した画帖(がじょう。肉筆画のとじ本)の中から見つかりました。版元とは今で言うところの出版社に当たります。 2018年、神奈川県立歴史博物館に寄贈された孫兵衛の画帖7冊には、幕末から明治時代に孫兵衛が出版した500図を超える錦絵が貼り込まれていました。「各大区纏鑑」も孫兵衛が出版したものです。 孫兵衛の画帖に貼り込まれた錦絵には、江戸時代以来の役者絵や美人画、名所絵のほかに、装飾性を重視した華美で強烈な色彩の錦絵が多数ありました。これらは、開港地の横浜や諸外国で、外国人向けに販売されたと考えられます。 それと言うのも、孫兵衛の義兄・森村市左衛門(もりむら いちざえもん)は、ニューヨークに店舗を構え、日本の錦絵や陶磁器を販売していたからです。 森村組の海外向けグリーティングカードや商品ラベル類(画像:神奈川県立歴史博物館) ちなみにオランダにあるゴッホ美術館のコレクションの中にも、孫兵衛が出版した錦絵が数点確認できます。孫兵衛が出版した錦絵は、めぐりめぐって同時代を生きた印象派の画家・ゴッホ(1853~1890年)の手元にまで届いていたのですね。 歴史は更新され続ける歴史は更新され続ける 孫兵衛はのちに、日本陶器(現在のノリタケカンパニーリミテド)や大倉陶園の設立に参加し、日本の近代窯業史上での功績で広く知られることになります。江戸日本橋に生まれ、家業の錦絵の出版によって培った美的センスや商才は、新しい挑戦だった製陶業においても、大いに役立ったのでしょう。 世界に向けて日本の技術を発信していった大倉孫兵衛。7冊の画帖は、その輝かしい活躍の軌跡を雄弁に物語ります。 しかし不思議なことに、画帖の一部には、摩耗した(欠損も見られる)江戸時代の古版木を刷すったとおぼしき「忠臣蔵」の錦絵なども貼り込まれています。未完に終わった「各大区纏鑑」とともに、そこには決して順風満帆ではなかった人生の物語が隠されているように思います。 三代歌川広重「大日本物産図会」(左上)「東京錦絵製造之図」(画像:神奈川県立歴史博物館) ぜひ皆さんも、本稿でご紹介した作品を見返しながら想像を膨らませてみてください。明治の近代化は、江戸の町をどう変えていったのか。孫兵衛が錦絵の出版によって世界に広めたかったもの、画帖に保管し後世に伝えたかったものはなんだったのか、と。 「各大区纏鑑」14図ほか、明治のさまざまな錦絵を収録する大倉孫兵衛の画帖の全容は、神奈川県立歴史博物館より刊行される図録『明治錦絵 × 大正新版画 世界が愛した近代の木版画』に掲載されています。
- おでかけ