まさにコンクリートジャングル! 新宿西口に「超高層ビル」が集中しまくってるワケ
世界有数の大都市「新宿」。多くの高層ビルが建つ様は、まるでコンクリートジャングルのよう。新宿はなぜこのような街になったのでしょうか。代々木ゼミナール地理講師の宮路秀作さんが解説します。新宿駅の乗降客数は1日約353万人 1日約353万人――。これは2017年の新宿駅を利用する乗降客数の平均値です。 新宿駅はJR東日本各線に加え、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局の5社が乗り入れています。ここから東京西部、神奈川県北西部、埼玉県南部などのベッドタウンと結ばれ、通勤で都心へやってくる人たちでごった返します。 横浜市の人口が378万273人(2021年5月1日速報値、横浜市のウェブサイトより)であることから、まるで「横浜市民が大挙して新宿駅にやってくる!」といった具合です。なお新宿駅を利用する乗降客数は、世界記録としてギネスブックに掲載されています。 一般的な都市機能は「職住学遊」に集約されますが、新宿駅は「職」機能に特化していると言っても過言ではありません。そのため、新宿駅周辺、特に西口周辺にはオフィスビルが立ち並び、まるで「コンクリートジャングル」の様相です。 新宿西口の風景(画像:写真AC) いったい新宿がコンクリートジャングルとなっているわけはどこにあるのでしょうか? 今回は、こちらの謎をひもといていきます。 色別標高図から分かること色別標高図から分かること 東京は広い洪積(こうせき)台地の近くに沖積(ちゅうせき)平野が広がり、さらに海に面するという地形的特徴を持っています。 洪積台地は更新世(こうしんせい、約258万年前~1万年前)に地盤が隆起して台地状となった地形です。一方の沖積平野は完新世(かんしんせい、約1万年前~現在)に河川の堆積作用によって形成された平野のことです。前者の地盤は固く、後者は軟らかいのが特徴です。 沖積平野からつながる遠浅の海域が広がるため、大型船舶の接岸が難しく、港湾機能がいち早く開かれたのは横浜港でした。 東京で製造された物品を輸送するため、1872(明治5)年に新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通しました。当時の横浜駅として開業されたのが、現在の桜木町駅のある場所でした。その後は鉄道の延長に遭わせて移転を繰り返し、現在の横浜駅の場所へ落ち着きます。 さて、図は皇居を中心とした東京の色別標高図です。 皇居を中心とした東京の色別標高図。「0m地帯」を黒く表示(画像:宮路秀作) 黒く塗られているのは「海抜0m地帯」、つまり満潮時の海水面よりも低い地帯です。特に荒川流域が黒く塗られ、海抜0m地帯が広がっていることが分かります。 一方、皇居よりも西側は、東側よりも標高が高く台地が広がっていることが分かります。東京23区には「愛宕山」などの台地を表す地名だけでなく、「九段坂」「昌平坂」「三宅坂(みやけざか)」といった「坂」を表す地名が残っていることからも、その地形的特徴が理解できます。 現在の皇居のあたりには、かつて江戸城がありました。その場所を地形的にみると、江戸城が武蔵野台地の東端に位置していることが分かります。 これは上町台地の北端に位置する大阪城、熱田台地の北西端に位置する名古屋城と同様で、「台地の末端」に城郭が築かれているわけです。台地は地盤が固いため、築城するときの障害が少ないことは建築上、大きな利点となります。 また台地の末端は軍事上、大変重要な意味を持ちます。台地上は周辺を見渡すことが可能です。もしも外敵の侵入があれば、すぐさま発見して迎え撃つことができます。また背後は崖であるため、攻め入るのは大変困難です。 さらに城下町から城郭を見上げることになるため、市井(しせい)に対して威厳を示すことができます。こうして城郭が築かれると、城下に商工業が発達して城下町を形成していきました。 なぜ「山手」「下町」なのか? 東京では沖積平野に形成された街を「下町」、台地上に形成された街を「山手」とそれぞれ呼びました。城郭からみれば「下」に位置する「町」ですので、下町と言われたのがうなずけます。 「下町」の代表例は ・日本橋 ・京橋 ・神田 ・深川 ・浅草 などです。 そして山手と呼ばれる地域をぐるっと1周しているのが山手線です。山手の代表例は、 ・麹町 ・麻布 ・赤坂 ・牛込 ・本郷 ・小石川 などです。 江戸時代が終わり、明治時代になると、山手はさらに武蔵野台地を西へと拡大していき、都市化の進展がみられました。 郊外での住宅地開発が進んだのは、1920年代からです。各鉄道会社が旅客輸送量の増大を狙って、郊外へと、つまり西へと沿線を伸ばしていきました。 こうして郊外に住宅を構え、都心に通勤するという「職住分離」が徐々に始まっていきます。高度経済成長期になると、地方都市からの人口流入が進み、都心部における既成市街地の過密問題が顕在化していきました。 特に、結婚や出産を契機に世帯人数が増えると、より良い住宅環境を求めるようになりました。こうした需要を取り込んだのが郊外における新興住宅地、いわゆるニュータウンです。 高度経済成長期に進んだ超高層ビル建設高度経済成長期に進んだ超高層ビル建設 現在、新宿駅の西側は超高層ビルが立ち並びコンクリートジャングルとなっています。 もともと、この場所には東京都水道局の浄水場である、淀橋浄水場がありました。1898(明治31)年12月に通水が始まり、玉川上水から水を引き入れていました。 しかし高度経済成長期になると、新宿副都心計画によって超高層ビルの建設が進み、現在のようなコンクリートジャングルへと生まれ変わっていきました。「淀橋」の名前は、ヨドバシカメラにその名を残しています。 淀橋浄水場が存在した時代の新宿と現在の新宿(画像:宮路秀作) 写真は、かつての淀橋浄水場が存在した時代の写真とコンクリートジャングルへと変貌した現在の写真を比較したものです(地理院地図より抜粋)。 洪積台地と沖積平野の境目を走る山手線 東京周辺のハザードマップには、大雨の際に洪水被害に遭う可能性が高い地域に色が塗られています。容易に想像できることですが、荒川と多摩川流域では洪水被害が拡大しやすい環境にあります。ハザードマップに山手線沿線を描き入れたものが次の図です。 東京周辺のハザードマップ(画像:宮路秀作) 山手線の東側は洪積台地と沖積平野の境目を走っています。この山手線も乗り入れる新宿駅が、台地上に位置していることが分かります。 つまり新宿駅は台地上であるため、平野と異なり支持層となる硬い地層が地中の浅いところにあるわけです。支持層となる硬い地層に支柱を打ち込むことで、高層建築物を支えることが可能となります。 新宿においては「東京礫層」という地層がそれに該当します。新宿周辺は東京礫層が地下10mほどに存在するため、そもそもくいを打つ必要すらない場所もあるようです。 一方の東京東部をみると、沖積平野が広がっていることもあり、東京礫層は地下50mほどに存在します。ここまで掘ることでくいを打ち、そしてようやく東京スカイツリー(墨田区押上)のような高層建築物が建てられるようになるわけです。東京タワー(港区芝公園)が建築されたのも、東京礫層が地下10mほどの浅い場所に存在していたからと言われています。 社会的要因と自然的要因が交錯社会的要因と自然的要因が交錯 もともと新宿は「内藤新宿」と呼ばれ、江戸時代に設けられた甲州街道沿いの宿場であり、江戸日本橋(にほんばし)から数えて最初の宿場でした。 ここで甲州街道は青梅街道と分岐するため、道が二手に分かれる場所を意味する「追分(おいわけ)」という地名が、「新宿追分」という交差点の名称として残っています。 新宿は、交通の便の良さといった「社会的要因」だけでなく、台地上に位置して東京礫層が浅い場所に存在するといった「自然的要因」も加味されて、超高層ビルが立ち並んだ。つまり、コンクリートジャングルへと変貌したというわけです。 新宿駅西口付近の様子(画像:写真AC) かつては宿場だった新宿には商業が集積し、「職」に特化した街並みへと生まれ変わり、やがてここで働く人たちを乗せた電車が乗り入れるようになりました。その人の数は年々増え、いつしか1日の乗降客数の平均値がギネスブックに掲載されるほどになったというわけです。
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