自決のわずか半年前 「三島由紀夫」と偶然にも言葉を交わした、おかっぱ頭の少女の記憶
華やかできらびやかな街というイメージが強い東京。しかし、大通りから1本路地に入れば、そこには昔懐かしい住宅地が広がり、名も知らぬ人々がそれぞれの人生を生きています。今回紹介するのは、自決を遂げるわずか半年前の三島由紀夫と偶然にも言葉を交わしていたある少女の話です。少女は、貸本屋で三島を見た きらびやかなばかりが東京ではない――。都心のふとした片隅に突如現れる、昭和のまま取り残されたような異空間。そこにもまた名も知らぬ人々が暮らし、大切な今日をただひたむきに生きていました。 ※ ※ ※ 日本の小説家・政治活動家である三島由紀夫が1970(昭和45)年11月25日、現在の新宿区にある市ヶ谷自衛隊駐屯地に乱入し、東部方面総監室で自決を遂げた事件がありました。その日、雲ひとつない天に抜けるような青空でした。 ところがそのわずか半年ほど前、三島が大田区内の自宅近くの貸本屋で立ち読みする姿を、近所に住む当時10歳の西田聡子さん(仮名)は偶然目撃していました。 筋肉質、オシャレないでたち 実は、西田さんは何度となくこの店で三島の普段の姿を知っていたといいます。どちらかというとやせた筋肉質の体形、身長も目立たないくらいです。 まだ小学生だった少女は、近所で三島を目撃していた。写真はイメージ(画像:写真AC) その日もラフな黒のシャツに黒ズボンという姿ですっきり見えて、子ども心にもオシャレを感じるものだったそうです。 最後に見たとき、どんな本を読んでいるのかと近くに寄ってのぞくと、劇画の「人斬り以蔵(いぞう)」でした。劇画の作者は誰か分かりませんでしたが、三島は熱心にページをめくっていたといいます。 「何か用なの?」声を掛けられ「何か用なの?」声を掛けられ「私はまだ小学生で、近所の有名な人ぐらいは知ってましたから、おかっぱ頭でジロジロ見ていると『何か用なの?』とけげんそうな顔をしていました」 子どもだから返すべき言葉も思いつかず、妙に慌ててしまってバタバタバタと走って逃げました。 夜の18時少し前です。店はバス通りに面した銭湯の向かいにあって、書店兼業で貸本もやっていました。後で西田さんは、人斬りの岡田以蔵とはどんな人物だったのかを知りました。まさか、あのとき目の前にいたその人が、自ら日本刀を振りかざして事件を起こすなんて……。 妙にウマの合ったふたり そこの店主は変わった人で、客にもまこと無遠慮でした。 ときどき東京の東の方まで出向いていって、小さな芝居小屋に出演していたと聞きます。客の前で小柄な体に学生服とマント姿のいでたち。年代物のバイオリンを弾き、ドラ声を張り上げながら「壮士節(そうしぶし)」を歌っていたとも。 出し物が少し変わっているということで、人気があったかどうかまでは分かりません。この芝居小屋での話を、西田さんは父親から一度聞いてます。立派な芸人らしいとのことでした。 貸本屋で客に催促されれば「待ってました」とばかりに椅子からヒョイと立ち上がって肩をいからし、気軽に歌ってくれる。やっぱりドラ声。 そんな店主と三島は、妙にウマが合ったようでした。三島は時間のあるとき店に訪ねてきては、世間話のあれこれをふたりで話していたようです。 店は三島の自宅から歩いて10分と少しだから、大作家にとっては気分転換に格好の隠れ家だったのかもしれません。 意気消沈していた店主意気消沈していた店主 事件のすぐ後、西田さんが店に立ち寄ったとき、店主はいつもと違ってふさぎ込んでいたように見えました。おかっぱ少女はつい「オジサン、元気ないね」と声を掛けました。 すると店主は大声で、 「俺の店に来やがる三島先生が死んじまったのよ。何の相談もねえでよ、それって、どうしようもねえバカかよ、そうじゃねえかい」。 三島と貸本屋の店主は、よくふたりで話し込んでいたという(画像:写真AC) そして、大粒の涙を手のひらでぬぐい、「いやー、うんうん」「やっぱりわかんねえ」「そうなのかよ」「やっぱわかんねえ」と頭を振り、子どもには聞き取れない愚痴をこぼしていたのでした。 三島の意外な素顔のそばには、こんな人もいたのです。子どもの観察力にも驚きますが、よほど印象深い出来事だったのだと思います。 <おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき> <死ぬも生きるも ねえおまえ 水の流れに 何変ろ おれもお前も 利根川の 船の船頭で 暮らそうよ> (『船頭小唄』作詞・野口雨情、歌:森繁久彌) 店主がよく口ずさんでいた歌です。哀切あるメロディーが、客の三島とあの店主によく合います。 変わりゆく時代と街並み変わりゆく時代と街並み 三島由紀夫、享年45。早過ぎた死でした。 今、三島が通った貸本屋も近くの銭湯も、すでに廃業してありません。西田さんは同じ場所で暮らしていますが、周りは農家の人や住む人も風景もすっかり変わって、あの日、理想を訴えた「三島事件」も忘れ去られようとしています。 筆者の知り合いで三島に傾倒した人物というと、もうひとり思い出すのはNさんです。 三島のファンだったNさんは、北海道の地でその訃報に触れた(画像:写真AC) 北海道で仕事をした折りにたまたま酒場で知り合い、親しくなりました。Nさんは当時、防衛大学校出身の新米自衛官。三島のファンで、講演を聴くため遠くまで出掛けるぐらいでした。 Nさんは部下にも決してえらぶらず、純粋で心根の優しい人でした。三島の全著書や色紙までそろえていましたから、事件後のNさんの悲嘆ぶりは見ていられないほど。 寒い雪の夜、札幌の外れの店で落ち合い、ふたりして冥福を祈るお酒を飲んだのも今では忘れられない思い出です。苦い酒でした。 ※記事の内容は、個人のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。
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