水難都市「東京」が大雨被害と戦ってこられたワケーー先人の知恵から読み解く治水の法
取材で歩いた地域一帯が、台風19号に襲われた 2019年10月、筆者が上梓した『奥東京人に会いに行く』(晶文社)。東京の周縁地域を「奥東京」と名付け、それぞれの土地に伝わる信仰や風習について現地の人々から話を聞き、まとめたものです。ジャンルでいうと民俗学的ノンフィクションになるかと思いますが、人と土地の結びつきに触れながら「これからの東京の暮らし」について考えた本でもあると考えています。 発売日だった10月21日(月)、あの台風19号が東日本に襲来し、広い範囲で甚大な被害をもたらしました。 同著の取材のために筆者が訪ね歩いた、奥多摩や伊豆諸島、東京と千葉の県境地域。かつて摂津国の佃村からやってきた漁民たちが造成した中央区の佃島、多摩川の河口に位置する羽田の旧漁師町……。これらの土地のなかには、台風19号によってダメージを受けたところもありました。 台風により増水した河川のイメージ(画像:写真AC) 幸運にも筆者が取材した住民たちは無事だったようですが、奥多摩の一部が道路の崩落によって孤立化したほか、多摩川や荒川、江戸川の周辺地域も氾濫の危機に晒されました。 また19号だけでなく、9月の台風15号の際には、今回の取材でお世話になった新島の人たちが家屋の破損などの被害を受けたといいます。今回取り上げた「奥東京」とは、常にそうした自然の脅威に対峙してきた地域でもあったわけです。 江戸時代から東京を悩ませ続けてきた水害と、その教訓江戸時代から東京を悩ませ続けてきた水害と、その教訓 こうした水害は、実は「奥東京」に限ったものではありません。東京がかつて江戸と呼ばれていた時代から、この大都市には常に水害に苦しめられてきた長い歴史があります。 有名なところでいえば、徳川家康が江戸に入ってまず着手した本格的な治水工事です。『江戸川の治水のあゆみ』(江戸川区教育委員会・編)によると、1590(天正18)年には伊奈忠次(いな・ただつぐ)を関東郡代に任じて、利根川水系の治水調査に当たらせています。 その調査とは舟運(しゅううん、川や運河で物資や旅客を運搬する輸送のこと)を開いて物資流通の便を向上させるためだけでなく、江戸を水害から守るためのものでもありました。 東京のなかでもとりわけ水害との関係が切り離せないのは、千葉との県境に位置する東側のエリア。大小の河川が蛇行しながら絡み合う地形は、「水の都」とも称されました。 先日の台風19号襲来の際には、岩淵水門(北区志茂)から中川の河口まで開削された人工河川・荒川放水路が隅田川の氾濫を防いで注目を集めましたが、この荒川放水路が完成したのは1930(昭和5)年と比較的最近のこと。この一帯は戦後もたびたび台風の被害を受けており、とくに1947(昭和22)年のカスリーン台風や1949年のキティ台風では多くの死傷者を出しています。 緊急時の河川舟運確保のため荒川放水路に整備された荒川ロックゲート(画像:写真AC)『奥東京人に会いに行く』で訪れた葛飾区の江戸川および中川流域は、「カエルが小便をしても水が出る」などとも言われてきた土地。この地に水害にまつわる数多くの伝承や民話が残されていることにも、水害に悩まされてきた長い歴史を垣間見ることができます。 たとえば現在の葛飾区西水元4丁目に祀(まつ)られている水神社は、1826(文政9)年の大洪水の際、水の勢いを止めるために老名主の源右衛門が川に飛び込み、人柱となって村を助けたことから建立されたと伝えられています。 隣接する江戸川区の東小松川には、水の神様を祀る「水神講」という信仰集団が今もなお存続しています。小松菜の原産地でもあるこの東小松川は、中川と江戸川に挟まれた低地帯。かつては蓮田が広がり、水路が迷路のように張り巡らされていたといいます。このような土地で水神講は、農作物の成長を願うだけでなく水害から田畑と家を守るために祀られてきたわけです。 いにしえからの言い伝えに、今こそ学ぶべきこといにしえからの言い伝えに、今こそ学ぶべきこと 都心で生活をしていると、自然災害の脅威に直面する機会は決して多くはないでしょう。自然と共存しているという感覚が薄れがちになることも無理はありません。 ただ、台風19号の直撃であらためて明らかになったように、河川の氾濫はどこでも起こりうること。古くから水害で苦しめられてきた荒川や江戸川流域の住民たちは、そのことを肌身で感じ、民話や信仰という形で後世に伝えてきました。 そこから見えてくるのは、自然災害を乗り越えるために必要なコミュニティーの力と助け合いの精神です。温暖化が進み、急激な自然環境の変化が予見されている今、先人たちから学ぶべきことは多いのではないでしょうか。
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